天草四郎(あまくさしろう)【1621年~1638年 享年17歳】

2024年3月21日長崎県,銅像江戸時代,天草四郎,原城跡

reopa

こんにちは、reopaです。case42は「天草四郎」さんです。
日本の一揆の中でも最大規模といわれる「島原の乱」を率いた
天草四郎さんは、どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:長崎県 南島原市 南有馬町 原城跡】 
 原城は天草四郎が率いたキリシタンや農民が立て篭もり、最後を迎えた場所です。
幕府軍と戦闘を繰り広げた「島原の乱」に参加した、約3万7千人が籠城し虐殺され
遺体は廃墟となった原城の敷地内に、まとめて埋められた悲劇の場所です。

国指定史跡・原城跡にある天草四郎の像は、祈りをささげる姿だと言われています。
また、約130年の時を超え原城跡一帯で出土した遺骨は、敵味方の関係なく集めて地蔵を
建立
し、この地蔵は「ほねかみ地蔵」と呼ばれています。

【家族構成】

父:益田好次(ますだよしつぐ)洗礼名・ペイトロ 通称・益田甚兵衛
母:名は不明 洗礼名・マルタ
姉:(ふく)洗礼名・レシイナ 
妹:(まん)洗礼名・マルイナ 

【人物像】

 天草四郎の本名は益田四郎(ますだしろう)いい、1621年(元和7年)に天草諸島の
大矢野島(現・熊本県上天草市)で、益田好次の長男として生まれました。
当時の天草・島原の民衆は重税の苦しみとキリスト教禁止による弾圧で不満は頂点
達していました。1613年(慶長18年)マルコス宣教師が追放される時に残した「25年後に
神の子が現れ、人々を救う
」という予言に対し、幼少期からカリスマ性があり人気のあった
四郎の起こした奇跡の噂が重なり「神の子の再来」と呼ばれ「島原の乱」における、一揆軍の
シンボル的な存在として総大将に祭り上げられましたが、原城で討死しました。

キリスト教が日本に伝わったのは、1549年の「フランシスコザビエル
さんの来日と言われているんだよね。でも、なぜ幕府はキリスト教を禁止したの?

reopa

原因は色々と考えられるけど、下記の2点の理由が大きいかもね。
①キリスト教は神の教えが絶対だから、当時の主君絶対の封建主義に
 合わない。
②信仰によって強く結ばれたキリスト教徒の団結力を怖れた。

【時代背景】

 島原の乱は、1637年(寛永14年)天草領主・島原領主らの圧政に反発した民衆が、
廃城となった原城に籠り幕府軍に抵抗を続けた
、日本の歴史上で最大規模の一揆です。
この頃の幕府は、年貢を納められない農民やキリスト教徒に対し拷問や処刑を行ていました。
圧政に耐えかねた農民が、代官を殺害したことが切っ掛けとなり島原の乱は起きたと
言われています。

 この島原の乱で一揆軍の総大将を務め民衆を率いたのが、当時16歳だった天草四郎です。
キリスト教に入信している農民が中心だった一揆軍ですが、各地の城を転戦した後に廃城と
なっていた原城に立て籠り幕府の鎮圧軍に応戦していました。
3ヵ月におよぶ籠城戦で、一揆軍・3万7千人に対し幕府軍は最終的に12万人を超えたと
言われており、4回にわたる幕府軍の総攻撃の内、3回は一揆軍が勝利したと伝えられていますが、
共に大勢の犠牲者を出した戦いとなりました。

 長期戦の疲れにくわえ、幕府軍の兵糧攻めによる飢えと弾薬が尽きたことで、一揆軍の
士気も徐々に下がり、多くの投降者を出したあと、幕府軍の総攻撃を受けて一揆軍は壊滅し
落城。一揆に参加した者は老若男女すべて皆殺しにされ、天草四郎も討死しました。
幕府軍の中に四朗の容姿を把握している者がいなかったため、四朗と同じ年恰好の男子の
首を並べ、四朗の母(マルタ)に首実検させたところ、陣佐左衛門が打ち取った首に取りすがって
号泣したことから、その首が四郎の首と認定され、死亡が確認されました。

一揆軍は皆殺しにされたと聞くけど、実際は生き残った南蛮絵師の
山田右衛門作(やまだえもさく)という人物がいるんでしょ?  

reopa

山田右衛門作さんは、一揆軍の中で四郎さんに次ぐ副将で参謀格としての
役割を果たしていた人物なんだけど、幕府側との矢文を通して一揆軍の
情報を密告していた裏切者と伝えられているよ。

【名言】

天も地も根は同じで、全ての物は一体である

いま籠城している者たちは、来世まで友になる

四郎さんは人に上下は無く平等に接していた様だし、籠城を
共にした人たちに対しても、思いやりのある言葉を残しているね。

reopa

四郎さんは心優しい青年だったんだろうね。
エピソードもそんな彼をあらわしている話が多いんだ。
どちらにしろ謎の多い青年ということだよ。

【エピソード】

 ・天草四郎が空に手を差し出すと一羽の鳩が手に止まり、その鳩が産んだ卵からキリスト教の
  経文と十字架が出てきた。
 ・盲目の少女に天草四郎が触れると、目が見えるようになった。
 ・海の上を歩けた。

 天草四郎は「豊臣秀頼」の落胤(らくいん)という説があります。
その理由で一番有名なのが、天草四郎の馬印が豊臣秀吉と同じ「千成瓢箪
(せんなりひょうたん)だったからです。
この説が事実なら、天草四郎は「豊臣秀吉」の孫の可能性があるという事です。
落胤とは「身分・地位」のある男性が、正妻ではない女性に生ませた子供
馬印とは大将の所在を示す旗

2024年3月21日長崎県,銅像

Posted by reopa