大伴家持(おおとものやかもち)【718年~785年 享年68歳】
こんにちは、reopaです。case16は「大伴家持」さんです。
「波乱の万葉歌人」と言われる家持さんは、どんな人物
だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:富山県 高岡市 二上山 二上山頂】
家持が越中国に赴任して過ごした、越中国府は二上山のふもとにありました。
二上山の自然に包まれて、歌人としての家持は「二上山の賦」を作りました。
「二上山の賦」に添えられた歌を一つ紹介します。
「玉くしげ 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり」
二上山に建つ銅像は、自然あふれる二上山から見た風景を謳にしている姿です。
【家族構成】
父:大伴旅人(おおとものたびと) 母は丹比郎女(たじひのいらつめ)
弟:大伴書持(おおとものふみもち)
妻:坂上大嬢(さかのうえのおおいつらめ)
息子:大伴永主(おおとものながぬし)
家持さんのお母さんは、旅人さんの正妻ではなかったんだけど、郎女さんに
大切に育てられ、大伴氏の家督を継ぐために、必要な学問や教養をちゃんと
学んでいたから後に活躍できたんだね。
大伴氏の周りには、優れた人物が多くいて色々な面で恵まれていたんだよ。
でも、家族とは早くに死別しているから苦労もしているんだ。
【人物像】
家持は、大和朝廷依頼の武門の名家出身で奈良時代の貴族・歌人(三十六歌仙のひとり)で、
「波瀾の万葉歌人」と言われおり、律令国家の高級官吏としても歴史に名を残した人物です。
母・丹比郎女が亡くなり歌人である、叔母の大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)に
育てられた家持は、歌が得意な若者として成長します。
奈良時代において中央政界で台頭する藤原一族に対して、名門氏族の棟梁であった家持は、
「反藤原」の動きに関わることも多くそのため、中央官僚復帰と地方官僚への左遷を繰り返す事に
なりますが、光仁天皇(こうにんてんんおう)と桓武天皇(かんむてんんおう)の時代に
なると都の要職や大国の守を歴任し、やがて先任の参議を越えて中納言に昇進しました。
平安時代初期の「古今和歌集」に、代表的な歌人の「六歌仙」がいるんだ。
「三十六歌仙」は、平安時代の優れた和歌の名人36人のことなんだ。
柿本人麻呂さんは「case29」で、紹介しています。
【時代背景】
731年に、父の旅人が亡くなり家持は、14歳で大伴家を背負うことになります。
738年に「内舎人」(武装して宮中に宿直し,天皇の雑役や警衛にあたる役職)となり、
聖武天皇の伊勢行幸に同行しました。 29歳の年に宮内少輔に任じらその後、少納言となり
帰郷するまでの5年間を越中国(富山県)に在任しました。 越中国に赴任していた家持は、
都と異なる越中の風土に接した新鮮な感動を伝える歌など、多くの和歌を詠んでいます。
越中国の赴任中に、弟の書持と死別する悲しい出来事もあったんだよね。
この越中国の赴任については、栄転と左遷で見方が分かれているんでしょ?
751年に家持は少納言となって帰京しましたが、ここからの昇進は極めて遅いものとなります。
これは橘氏と藤原氏との抗争に巻き込まれ、藤原氏からの圧力が掛ったのかもしれません。
この抗争が原因で、因幡守に任じられ再び地方官となります。
家持自身は、一族の将来を考え抗争から距離を置きたかったのですが、悩みは多かったようです。
その後、家持は信部大輔に任じられて帰京しましたが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の
暗殺計画を企てていたことが密告され、764年に薩摩守に任じられ左遷されてしまいました。
抗争に巻き込まれたり、首謀者ではなくとも暗殺に関与したにも関わらず
左遷はされても公職には居られたのは、政治家でもある家持に期待する
反藤原氏勢力の影響もあったんだ。
784年に持節征東将軍(蝦夷征討の将軍)に任じられた後、785年に68歳で亡くなりました。
家持が没した同年9月に、寵臣の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺され、家持は暗殺の
首謀者の一人として関与していたとされ、死後に官位等すべての名誉を剥奪された上で、
子供の大伴永主(おおとものながぬし)も、隠岐国(おきのくに)へ流罪となりました。
家持の没後約20年経った806年に、恩赦を受けて従三位に復しました。
政治家でもある家持さんは、抗争や暗殺などの事件に関係が多いんだね。
「波乱の万葉歌人」と呼ばれる理由が、わかった気がする。
家持さんの政治家としての背景は、歌に詠まれている事が多々あるね。
現代でいうところの派閥争いに巻き込まれて、政治家としての
家持さんは、波乱万丈だけど二上山が歌人の家持さんを
癒していたんだろうね。
【名言】
「生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は 楽しくをあらな」
(生きている者は結局死んでしまうのだから、この世に生きている間は楽しくいたいものだ。)
家持が16歳の時に詠んだとされる歌です。
「振り放けて 三日月見れば 一目見し 人の眉引 思ほゆるかも」
(空を仰いで三日月を見ると、一目見たあの女性を思い出します)
16歳で詠んだ、この歌は好きな女性を想いながら詠んだんだね。
政治背景が滲んでる歌と違って優しい気持ちが伝わるね。
家持さんの父親の旅人さんも、有名な歌人です。
二人に関するエピソードを載せます。
【エピソード】
「新しき 年の始めの初春の 今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)」
(新しい年の初めに降る雪よ、どうかこの世に良いことを積もらせてくれないか。)
この歌は後に「万葉集」の最後を飾る歌となるとともに、この歌を最後に家持が詠んだ歌は
見つかっていません。家持の歌は長歌・短歌など合計 473 首が『万葉集』に収められており、
『万葉集』全体の 1 割を超えていることから家持が『万葉集』の編纂(へんさん)に大きく
関わったと考えられています。
新年号の「令和」は「万葉集」から引用されたのは皆さんも、ご存じだと思います。
令和には「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」という願いが、
込められています。「梅花の歌三十二首の序文」に
「初春の令月にして 気淑く風和ぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭は珮後の香を薫す」と
記載されており、この序文から引用されました。
この序文を歌ったのが、家持の父親の旅人と言われています。
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