前田利家(まえだとしいえ)【1537年~1599年 享年62歳】
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こんにちは、reopaです。case17は「前田利家」さんです。
戦国時代きっての「傾奇者」ともいわれる利家さんは、どんな
人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:石川県 金沢市 尾山町 尾山神社】
尾山神社は、利家と妻「まつ」を祭神として祀る神社です。
利家没後に嫡男の利長は、利家を神として祀ることを考えましたが、
前田家は外様大名のため、幕府の許可なく神社を創建することはできませんでした。
そこで利長は、前田家守護神「物部八幡宮」と「榊葉神明宮」を遷座するという名目で、
「卯辰山」(うたつやま)の、山麓地に「卯辰八幡宮」を建立しました。
これが「尾山神社」の始まりとなっています。
尾山神社の利家の銅像は、背中に目を引く大きく丸い袋の「母衣」(ほろ)を背負っています。
戦の中で放たれた矢や投石などから身を守る為のもので、内部は骨や竹で作られています。
身を守る物ですが、逆にその袋が目立って狙われてしまうという事もあったようです。
【家族構成】
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利家さんは、兄弟も多いけど子供も多いんだね。
正妻の「まつ」さんとのあいだには、2男9女だったかな?
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側室が寿福院さん以外にも、4人居たから子供が多いんだよ。
利家さんは、どんな人だったか見ていこう。
【人物像】
幼名は犬千代(いぬちよ)尾張国(現:名古屋市)の土豪の四男として生まれました。
利家は当時ではめずらしい180cmを超える大男で、容姿端麗だったと伝えられる
加賀百万石と称される「加賀藩」の礎を築いた人物です。かぶきもの・喧嘩好きで知られ、
6mを超える槍を持ち歩いていたため「槍の又左」(やりのまたざ)と呼ばれて恐れられて
いました。 若くから織田信長(おだのぶなが)に仕え、数々の戦いで功績を挙げた勇猛果敢な
武将です。「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)後、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に
仕え、加賀百万石の大名となり「五大老」のひとりとして豊臣家を支えました。
秀吉の死後の天下人は、徳川家康か前田利家かと言われた程の人物です。
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元々は父親の利春さんから嫡男の利久さんが、家督を継いでいたんだけど
信長さんの指示で利家さんが、家督を継ぐことになったんだよね。
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利久さんは、体が弱く信長さんから武将として頼りなく思われたんだ。
反面、利家さんは体格も良く戦も強いから信長さんに気に入られたんだ。
【時代背景】
1552年(天文21年)織田一族間の抗争である「萱津の戦い」(かやづのたたかい)が、
利家の初陣とされ、十代前半の利家は既に槍の使い手でかなり強かったと言われています。
その後も織田家の内部抗争が続く中で、利家は数々の武功を挙げその功績を評価されて、
信長の親衛隊としての役割をもつ「赤母衣衆筆頭」に抜擢されます。
この頃、利家22歳の時に容姿端麗で賢く才媛の「まつ」12歳と結婚をしました。
そんな中、1559年(永禄2年)利家に人生最大のピンチが訪れます。
妻「まつ」からもらった、笄(こうがい:刀の鞘の一部)を盗まれ怒った利家は
信長が寵愛していた茶坊主の拾阿弥(じゅうあみ)を斬ってしまったのです。
これに怒った信長は利家を出仕停止とし利家は浪人となってしまいました。
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「笄斬り」の件では、信長さんが仲裁に入ったにも関わらず
拾阿弥さんは、謝りもせず態度を改めなかったんだよね。
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信長さんの仲裁もあり利家さんは、一度は拾阿弥さんを許したんだ。
でも、拾阿弥さんは利家さんを悪く言ったので我慢できなくなったんだね。
浪人になった利家は、織田家への帰参を目的に信長に無断で、織田軍として戦に参戦します。
1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)では3つの首を取りますが、
信長の許しは貰えず、翌年の「森部の戦い」でも2つの首を取り、やっと信長の許しを得て
織田家に戻る事が出来ました。再び織田家の家臣として仕えるようになったのち、家督を継ぐよう
信長に命じられ、1569年(永禄12年)利家は、前田家の当主となりました。
もともと優れた槍使いとして数々の功績を挙げてきた利家ですが、信長からの信頼を
取り戻したあと「金ヶ崎の戦い」では、信長の警護を任されるほどになりました。
1570年の織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った「姉川の戦い」の功績を称えられ
「日本無双の槍」と称されました。 その後の、石山本願寺と争った「春日井堤の戦い」では、
退却する織田軍を守るため、ただひとり戦場に踏みとどまり、味方が逃げるのを助けたと
されています。その後も「一条谷での戦い」「長島一向一揆」「長篠の戦い」で活躍し、
利家の名声は、戦国の世に広く知られました。
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若い時から信長さんを助ける為に戦った利家さんだから、信長さんの下に
早く戻りたかったんだね。しかし利家さんは本当に強いよね。
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「府中三人衆」とは、信長さんから命じられ「与力」として勝家さんの
指揮下に入るとともに「目付」として監視役も務めたんだ。
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「清州会議」では、家臣の中でも力のあった勝家さんの意見が通らず
信長さんの仇である光秀さんを倒した、秀吉さんの意見が通ったんだよね。
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「賤ヶ岳の戦い」に敗れた勝家さんは、妻で信長さんの
妹「お市の方」さんと自害してしまったんだ。
「賤ヶ岳の戦い」の後、秀吉から利家に加賀国2郡が与えられ、加賀百万石の礎となりました。
1584年(天正12年)に東海地方において、秀吉軍と徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)
連合軍が対立する「小牧・長久手の戦い」が勃発し、時を同じくして以前より能登・加賀地方を
狙っていた「府中三人衆」の一人である、佐々成政が利家の治める能登へ侵攻してきました。
これが「末森城の戦い」ですが、最終的には成政の降伏で利家は能登・加賀・越中の三カ国に
領土が広がり「100万石の大大名」となりました。
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「賤ヶ岳の戦い」では、共に信長さんを支えた勝家さんを裏切る形に
なったけど、若いころから仲の良かった秀吉さんに最後まで尽くしたんだね。
更に秀吉の息子である豊臣秀頼の養育をする守役を任され、大阪城に入城しました。
秀吉亡き後に、家康の不穏な動きに対して戦も覚悟の姿勢を見せ、家康の行動を抑制しました。
これは秀吉から秀頼を頼むと遺言を託された利家の豊臣家を守るための忠誠心の表れです。
利家は大切にしてくれた秀吉への義に尽くし、妻「まつ」への愛に生きた武将と言えます。
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利家さんの信長さんや秀吉さんに対する忠誠心と義の心を想うと、
勝家さんを裏切る時の心情は計り知れないことだね。
【名言】
「人間は不遇になったとき、はじめて友情の何たるかを知る。」
「武門とは信義の番兵であり、人の生涯は心に富を備える為にある。」
「戦場に出でては、我が思うようにして、人の言うことを聞き入れぬが良し。」
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名言の「人間は不遇に...」の意味は「苦しい時に助けてくれて力に
なってくれる友達の存在は大変ありがたいものです」こんな感じだと
思うけど、この友情の有り難さを感じさせたのが、秀吉さんなんだよね。
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信長さんの傍にいた時は周りに人がいたけど、浪人になり周りから
避けられる状況になった時に、励まし支えてくれたのが秀吉さんだからね。
【愛刀】
前田家の家宝「大典太光世」(おおてんたみつよ)→国宝(前田育徳会)
豊臣秀吉から拝領した名物「備州長船住長義」(びしゅうおさふねじゅうちょうぎ)→重要文化財
別名「大坂長義」(おおさかちょうぎ)
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愛妻家でも知られる利家さんと妻「まつ」さんとの
エピソードを、少し紹介します。
【エピソード】
利家を支えた正室「まつ」は聡明な女性で、前田家のピンチを何度も救い
「加賀100万石の母」と言われています。「まつ」は、幼い頃から容姿端麗で賢く、
読み書きやそろばんをも嗜む才媛だったのです。利家は「愛妻家」で「まつ」との
仲の良さも有名です。「傾奇者」「猛者」のイメージが強い利家ですが、浪人生活を
機に倹約家としても有名で「そろばん」を持ち歩き、家計を管理していたと言われており、
「まつ」からケチと言われていたそうです。
利家の死期が近づくと「まつ」から、死装束(くさびかたびら)を着るように
促されます、若い頃から手柄をたてる一方で、多くの人を殺してきた利家が、
地獄に落ちると「まつ」は思いました。しかし、利家はこれを拒みます「自分の欲望で
人殺しをしたことはないもし。地獄に落ちたならば、先に死んだ部下たちと共に閻魔大王
とも一戦交えるまでだ」と言い、死装束を着なかったといいます。喧嘩好きな利家らしい
エピソードです。
【家紋】
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