吉川経家(きっかわつねいえ)【1547年~1581年 享年35歳】

2023年3月19日鳥取県,銅像安土桃山時代,戦国時代,吉川経家,鳥取城

reopa

こんにちは、reopaです。case31は「吉川経家」さんです。
鳥取城で「羽柴秀吉」の兵糧攻めに遭い、城兵の命を救うことを
条件に降伏し、秀吉から領地に戻すとの意思を伝え聞きながら
拒否し自刃した
経家さんは、どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:鳥取県 鳥取市 東町 鳥取城】 
 織田信長(おだのぶなが)の命を受けた羽柴秀吉(はしばひでよし)率いる
中国討伐軍が「鳥取城」に侵攻します。以前の鳥取城の城主である山名豊国
(やまなとよくに)は秀吉に降伏しますが、それを良しとしない家臣に城を
追放されます。その後に城主となったのが、今回の主人公である「吉川経家」です。

 兵糧攻めを目論んだ秀吉と黒田官兵衛(くろだかんべえ)は周辺地域の米などを
買い占めます。経家軍も様々な手段で兵糧入手を試みますが、秀吉軍に阻止されて
しまい城内では餓死者が続出し、これ以上は無理だと判断した経家は、自らの命と
引き換えに籠城兵と農民の助命を申し出て開城
しました。
後に「鳥取の渇つえ殺し」と呼ばれる籠城戦の舞台が鳥取城です。

この兵糧攻めを進めるにあたり、秀吉さんは米を高値で買い占め
鳥取城の兵糧米まで買ったと言われているね。

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秀吉さんは、兵糧攻めを確実に長引かせない為に、周辺の米の入手を
絶った事に加え、村に火を放ち村民が城に逃げ込むように仕向け、
兵糧が早く無くなるように、用意周到に仕組んだんだ。

【家族構成】

父:吉川経安(きっかわつねやす) 母:吉川経典(きっかわつねのり)の娘
兄:不明(ふめい)   
妻:境経輝(さかいつねてる)の娘
息子:長男 吉川経実(きっかわつねさだ) 次男 吉川家種(きっかわいえたね)
   三男 吉川家好(きっかわいえよし) その他に娘3人  

【人物像】

 幼名は千熊丸といい、1547年(天文16年)毛利氏の家臣で石見吉川氏当主である
吉川経安の嫡男として誕生した、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将です。
最後の戦となる織田方の羽柴秀吉(はしばひでよし)の「兵糧攻め」に耐えかね降伏
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは山名氏の旧臣だけでよく、
経家に対しては、責任を問わず領地に戻すとの意思を伝えましたが、経家は自分だけが
生き延びるわけにはいかない
と、それを拒否し責任を取って自害の意思を変えませんでした。
経家は非常に責任感の強い人物だったようです。

【時代背景】

 1560年(永禄3年)吉川経家は元服(げんぷく)します。
1574年(天正2年)に父の吉川経安が隠居し、文武両道に優れた吉川経家が家督を継ぎました。
その年に、吉川元春(きっかわもとはる)に属して毛利氏の中国地方制覇に貢献しました。
*元服とは男子が成人になった儀式で15歳前後で行られる事が多い様です。

 1581年(天正9年)織田信長の命を受けた羽柴秀吉が因幡(いなば)の鳥取城に侵攻。
毛利家に従属していた鳥取城主・山名豊国は降伏しますが、家臣の森下道誉中村春続
山名豊国を城から追放し、吉川元春に支援を要請します。ここで白羽の矢が立ったのが、
吉川経家で吉川元春から鳥取城に向かうように命じられました。
織田方と毛利方という、当時の2大勢力がせめぎ合うかなめの城を守るという重要な役割を
任せられることになりました。

 経家は、鳥取城に向かう前に元服前で13歳だった嫡男の亀寿丸に家督を相続させます。
その後、吉川元春と惜別の盃を交わした経家は400人程の家臣と共に鳥取城に入城しました。
山名の家老や因幡の国人らに迎え入れられた経家ですが、入城の際に自らの「首桶」を
用意して持参
したとされ、死を覚悟して入城した事がわかります。
この姿を見た山名家の家臣らは、ようやく骨のある城主が来たと喜んだと言います。

 鳥取城は通常2000人規模の城兵でしたが、織田方との戦に備え4000人程が
籠城兵として城におり、兵糧が底をつくのは思いのほか早く城内では、家畜の牛や馬を
はじめ、蛇・カエル・草・木の根を食べ
てしのぎますが餓死者が続出し、最後は餓死した
人の肉も食べていた様です。「餓死した人の肉を切り食い合った。子は親を食し、弟は兄を
食した
」との記述が残っています。4カ月にわたる籠城の末、城内の食糧が底をつき悲惨な
状況となり防戦不可能とみた経家は、自らの命と引き換えに籠城兵と村民の命を救うことを
条件に降伏し開城しました。

この兵糧攻めの結果は悲惨なもので、空腹に耐えられずに
人肉まで食した記録が残っているんだね。

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鳥取城を任された責任を全うしようとする気持ちと、籠城戦が進むにつれて
籠城兵の悲惨な状況を目の当たりにした経家さんは、どんなに辛かったか
計り知れないね、この籠城戦は悲惨さのあまり大河ドラマなどでも描かれる
ことのない
戦いの一つなんだ。

 降伏すると言う経家の奮戦を称え、秀吉は自害するのは山名豊国に仕えていた森下道誉・
中村春続だけでよく、代理の城主・吉川経家は領地へ戻す
との意思を伝えましが、経家は
自分が生き残る事を拒否した為、困った秀吉は信長に相談した結果、信長は経家の自害を。
許可しました。結局、経家は森下道誉・中村春続首と共に自害しました。
自害後、経家の首は秀吉の下に届けられ、秀吉は首を見るなり 「哀れなる義士かな」と
言って男泣きした
と言われています。その後、経家の首は安土の信長のもとに送られ、
手厚く葬られたそうです。

本来の城主であり降伏した結果、追放された山名豊国さんは、その後に
家康さんによって取り立てられ、旗本として79歳まで穏やかな生涯を
送っという話だね。

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ある説では、豊国さんは経家さんが鳥取城に入城した時にも、城にまだ居て
鳥取城の内情や経家さんの情報を織田方に密告していた事が、発覚した
ために逃亡したとも言われているんだ。

【名言】

経家が子供に残した遺書といわれています。
我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 その幸せ物語り
おきおきあるべく候
」 
(自分ひとりの切腹で多くの城兵たちの命を救い、吉川一門の名を上げるのである。
その幸せ物語をぜひ聞いてほしい)

日本弐ふたつの御弓矢の堺において忰腹かせばらに及び候事、末代の名誉たるべく存じ候
(毛利と織田が激突した日本二つの弓矢の境目で切腹できることは、末代までの名誉と存じまする)

【エピソード】

 経家は自刃の前に家臣と最後の盃を交わした後に、それを見守る家臣達に目をやって、
大声で「うちうち稽古もできなかったから、無調法な切りようになろう」と言ってから
切腹したと言われています。

経家さんも、自刃する時は栄養失調でやせ衰えて、一人で満足に
動ける様な状態では無かった
と言われているね。

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経家さんが、自らの命と引き換えに助けた籠城兵も、
極度の体調不良の中で、秀吉さんが用意した「粥」を
食べて大勢の人が亡くなったと記録されているんだ。

【家紋】

吉川経家の家紋「三つ引両紋」

 両引き紋は、主に足利氏一門の家紋として有名です。
足利氏の一門の「細川勝元」に仕えていた「吉川経基」が、応仁の乱の戦功で
賜ったものと言われているのが、丸に三本の横線が入る「三つ引両紋」です。
三本線は、先祖が朝廷から三度盃をいただいたことに由来すると言われています。
竜神にあやかって陣幕などに用いられました

2023年3月19日鳥取県,銅像

Posted by reopa