真田幸村(さなだゆきむら)【1567年~1615年 享年49歳】
こんにちは、reopaです。case20は「真田幸村」さんです。
「真田十勇士」を率いて戦国時代に活躍したとされる、人気の高い
幸村さんは、どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:長野県 上田市 二の丸 上田駅】
真田氏は、上田市北東部にある真田地域を本拠地とする地方豪族でした。
その存在が明らかになるのは、武田信玄の家臣として活躍し武田二十四将にも数えられた
祖父・幸隆からはじまり、発祥については現在も謎が多く残されている一族です。
「上田城」は、父・昌幸によって1583年に築城された真田氏の居城で、昌幸が2度にわたって
徳川の大軍を退けた「上田合戦」で、日本中にその名を轟かせた城です。
祖父・幸隆は知略家として知られ、信玄も落とせなかった「砥石城」攻略や「川中島の合戦」
など、信玄の信濃侵略に武功をあげ、信濃の地方豪族から大名にまでのぼりつめ、天下に
真田一族の名を馳せる礎を築きました。
【家族構成】
祖父の「幸隆」さんは、武田家と上杉家が争った「川中島の合戦」で、
常に武田家の中心で活躍した、すごい人で「武田二十四将」の一人で、
父親の昌幸さんも、徳川家との戦で勝利している武将なんだね。
そうなんだ、周りから信用されるためには、実績がものをいう時代に
おいて武将としての実績が無かった幸村さんは、悩んでい頃があるんだ。
そんな幸村さんの人物像と、名を残す武将となった生涯をみていこう。
【人物像】
幼名は弁丸(べんまる)正式な名前は、真田信繁(さなだのぶしげ)と言います。
幸村は、信濃の豪族で武田家家臣の真田昌幸(さなだまさゆき)の次男として誕生し、
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
豊臣家と徳川家の戦で、勝者の徳川家に寝返る事もなく義を貫いて敗者の豊臣家に付き
人生の最後を華々しく飾って散りましたが、その勇姿は時の戦国武将達を深く感動させ、
「日本一の強者」と呼ばれる様になります。徳川家に付いた武将の多くが幸村を評価しており、
武士魂の象徴として今なお多くの人の心を捕らえた人気のある武将です。
家康さんは、敵でありながら幸村さんの人物像を高く評価していて、
「あの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい」と語ったんだよね。
実績が無くて悩んでいた幸村さんが、どの様にして他の武将からも
評価される武将になったのか、時代背景をみていこう。
【時代背景】
昌幸さんは、武田氏の滅亡後に織田家の家臣となるんだけど、信長さんの
死後に家康さんとの関係が悪化したから、上杉氏を頼ったんだね。
家康さんが、真田氏を攻めた「第1次上田合戦」では、昌幸さんが
勝利して、その頃に台等した秀吉さんに近づき関係を作っているんだ。
1590年(天正18年)「松井田城」攻略で、24歳の幸村は初陣を飾ったと言います。
1600年(慶長5年)秀吉の死後に五大老筆頭として台頭した家康(東軍)と、対立する
他の五大老(西軍)との間で勃発した「関ヶ原の戦い」が始まります。
関ヶ原の戦いで真田氏は「東軍・西軍」に分かれ戦う事になり幸村は西軍に付くことに
なりますが、この戦で西軍は敗北。昌幸と幸村は死罪を命ぜられますが、高野山に流罪となり
後に九度山に移ります。1614年(慶長19年)徳川氏との関係悪化から、戦いの準備を始めた
豊臣家は浪人を募り、この時、幸村は流刑先の九度山を脱出し、真田旧臣や嫡男の真田幸昌
(さなだゆきまさ)を連れて大坂城へ駆け付けました。
実績が無くて悩んでいた幸村さんが、やっと天下に名を轟かせ、
他の武将を見返したのが「真田丸」での活躍なんだね。
局所戦で次々と敗北する豊臣軍の中で、真田丸の真田軍は
奮闘し徳川軍に大きなダメージを与えたんだ。
「大坂冬の陣・夏の陣」での幸村さんの活躍は凄かったんだね。
家康さんが自害していたら世の中は、どんな風になったんだろう。
幸村さんは戦場での戦略に長けた武将だったから、もっと意見が通れば
違う結果になったかもね。歴史は「たられば」で、想像するのも楽しいね。
幸村さんの名言は多く残されているけど、ここでは2つ紹介します。
【名言】
幸村が姉の嫁ぎ先に送った手紙の一部です。
「定めのない浮世なので、一日先は知りませぬ。我々のことなどは、
浮世にある者と思わないでください」
(一日先は分からないので、私達のことは、この世にいない者と思って欲しい)という意味です。
徳川軍に寝返りを打診された時の幸村の言葉です。
「いざとなれば損得を度外視できるその性根、世の中にそれを持つ人間ほど怖い相手はない」
(損得だけで豊臣方に付いた訳ではない、とっくに覚悟は決まっているのだ)
と申し出を断ったのでした。
幸村さんの名言は、何ていうのか「覚悟」のようなものを感じるね。
自分の信じた道を、ぶれずに進んでいるからかな?
【愛刀】
真田幸村の武器と言えば「槍」です。
本槍「大千鳥十文字槍」(おおちどりじゅうもんじやり)は、大坂夏の陣で使用したと
伝えられる1振です。 和歌山県九度山の「真田庵宝物資料館」に穂先のみが残っています。
幸村さんの「大坂の陣」で活躍と死に際の潔さ、その後の逸話を
少し紹介します。
【エピソード】
家康の陣に3回も突撃して傷つき疲れていた幸村は「安居神社」の境内で休んでいた
ところを、徳川方の西尾宗次に発見されます。幸村は、西尾に「わしの首を取って手柄に
されよ」と告げて討ち取られたと言われています。幸村の首実検には多くの武将が見物に
訪れて「真田の武勇にあやかりたい」と、髪の毛を持ち帰ったといいます。
こうして真田幸村は伝説になりました。しかし、家康は幸村の叔父の首実検で幸村の首と
認識されなかった事と西尾ごときが、幸村ほどの英雄に勝てるわけがないと考えていた事
などから幸村の死を疑ったいた家康は幸村に生きていて欲しいと願っていたとも、最後まで
幸村に怯えていたとも、伝えられています。
「大坂の陣」で豊臣家が滅んだあと、上方などで歌われたわらべ唄の一節です。
「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ」
幸村が「豊臣秀頼」を連れて鹿児島へ落ちのびたという唄ですが、鹿児島には
幸村と秀頼のお墓と伝わるものが存在しています。
真田幸村といえば「真田十勇士」です。個性豊かで魅力的な人物が、幸村の家臣
となって活躍する話は有名です。存在は確認できない人物もいますが、モデルとなった
人物もいます。その真田十勇士とは、猿飛佐助、三好清海入道、三好伊佐入道、穴山小助、
由利鎌之介、霧隠才蔵、根津甚八、筧十蔵、海野六郎、望月六郎の10名です。
【家紋】
幸村の家紋といえば、一番有名なのが「六文銭」です。六文銭とは仏教から来ていて、
死者の「三途の渡し賃」が六文といわれ、あの世で使うお金という意味から冥途のお金、
「冥銭」(めいせん)とも呼ばれます。諸説ありますが、六文銭を家紋にした経緯は、
決死の覚悟で戦うという意気込みや冥途に行っても、お金に困らないようにとの願いが
込められています。
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