結城秀康(ゆうきひでやす)【1574年~1607年 享年34歳】
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こんにちは、reopaです。case18は「結城秀康」さんです。
家康さんの次男として生まれるも「将軍になれなかった男」として
知られる秀康さんは、どんな人物だったのでしょうか。
【石像所在地】
【家族構成】
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さすがに家康さんの子供は多いんだね。でも、徳川2代将軍になったのは、
長男の信康さんでも次男の秀康さんでもなかったんだね。
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家康さんには、妻が正室と側室を含めると、20人以上も居たんだよ。
子供が多かったことが、家康さんの血筋を絶やすことなく、徳川幕府
260年の歴史を作ったことに繋がるんだね。
【人物像】
幼名は於義丸(おぎまる)1574年(天正2年)浜松城の城主であった家康の次男として
生まれましたが、家康の子でありながら、数奇な運命を背負った戦国武将です。
「小牧・長久手の戦い」後には、豊臣秀吉(とよとみひでよし)に養子という名目の
人質として差し出される事になりますが、秀吉にも妻の北政所寧々(きたのまんどころねね)
にも、可愛がられ秀康も秀吉を実の父である家康よりも慕っていたようです。
しかし、秀吉に子供ができ後継者が決まると、北関東の結城晴朝(ゆうきはるとも)の
養子に出され、晴朝の養女と結婚し後に、結城家の家督と領土を継ぐことになります。
天下人の家に生まれながら不遇な目に遭いながら、それでも自ら道を切り開いた人物です。
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長男の信康さんは、勇猛果敢な武将だったのに、21歳の若さで家康さんの
命により切腹しているんだけど、なんで次男の秀康さんが、家督を
継いでないのかな?
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信康さんの自害については、信長さんに謀反を起こしたからとか、
家康さんと不仲だったとか諸説あるんだ。ここからは、次男でありながら
徳川家を継げなかった、秀康さんの背景をみていこう。
【時代背景】
1584年(天正12年)「小牧・長久手の戦い」が勃発し、秀吉と家康が激突します。
結果的には、家康が勝利を収めましたが、後に秀吉からの和睦に同意し豊臣家の臣下となり
秀康を人質として豊臣家に差し出すことになります。このとき、嫡男の信康は亡くなっており、
秀康が長男の立場にありながら、家康の後継者には選ばれませんでした。徳川家の中で秀康の
立場が、いかに弱かったのかが分かります。
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秀康さんが養子に出される時点で、五歳年下で三男の秀忠さんが
徳川の家督を継ぐことが、決まっていたんだよね。
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秀康さんが、家督を継げなかった理由は、諸説あるけど当時は
忌み嫌われていた「双子」だったからとか、母親の身分が秀康さんより
秀忠さんの方が上だからとか、色々と言われているんだよ。
秀吉に養子として迎い入れられた秀康は「九州征伐」で初陣を飾り「岩石城」攻めで
先鋒を務め日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも、戦功を挙げました。
1590年(天正18年)「後北条家」を討つため「小田原征伐」へ参陣し着実に功績を
積み重ねていきます。
「小田原征伐」の勝利により秀吉の天下統一が、現実味を帯びてきた矢先に秀康は再び
養子に出される事になります。行先は下総国の結城晴朝(ゆうきはるとも)の元です。
秀康は秀吉に可愛がられていましたが、秀吉に実子「鶴丸」が生まれ後継者に指名されたのです。
結局、秀康は17歳で豊臣家を出て「結城家」を継ぎ、111,000石の地方大名になりました。
こうして豊臣家から離れた秀康でしたが、秀吉との間には強い絆があったと伝えられています。
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秀康さんの名前は、秀吉さんの「秀」と家康さんの「康」の一文字づつ
与えられて、付けられた名前なんだね。
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秀吉さんの元に居た時は、一時「羽柴秀康」と名乗っていたんだ。
結城家の養子になって領地を与えられているのに、領地に行かずに
病弱になった秀吉さんを心配して傍にいたと言われているんだ。
1600年(慶長5年)に「関ヶ原の戦い」が起こると、秀康は家康と共に会津に本拠を構える、
上杉景勝(うえすぎかげかつ)の討伐へと出陣します。「関ヶ原の戦い」で、家康率いる
東軍が勝利を収めると、景勝は秀康に書状を出し降伏の仲介を依頼します。これを受けた秀康は、
家康に「上杉家」の赦免を願い出たと言います。江戸幕府2代将軍となった徳川秀忠も、5歳年上の
兄として秀康を敬い一目置いており、幕藩体制の中でも特別な扱いをしていたといいます。
生来梅毒の持病を患っていた秀康は、徳川家から伏見城の居留守役を命じられますが、
病が重篤化し越前国へ帰国したのち、34歳の短い生涯を閉じました。
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嫡男の信康さんが亡くなり、実質的に長男になった秀康さんに、家督を
継がせなかった家康さんも、兄と慕っていた2代将軍の秀忠さんも、
秀康さんには、気を使っていたようだね。それにしても若すぎる生涯だね。
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秀康さんは、成長に伴い勇猛果敢で威厳に満ち自信に溢れた、稀に見る
逸材へと成長し、その場にいるだけで他を圧倒するほどだった様だね。
天下人たる資質を備えた秀康さんを、秀吉さんと家康さんは、怖れていたと
言うからね。
【愛刀】
家康から送られた名物「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)→国宝(東京国立博物館)
代々越前松平家の家宝→作州松平家「稲葉郷」(いなばごう)→国宝(柏原美術館)
三成から送られた名物「石田政宗」(いしだまさむね)→重要文化財(東京国立博物館)
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「数奇な運命を背負った戦国武将」の秀康さんには、多くの
逸話があります。ここでは、その一部を紹介します。
【エピソード】
秀康は、「畜生腹」(ちくしょうばら)と呼ばれて、忌み嫌われていた双子での誕生でした。
この双子のもう一人は、生後すぐに亡くなったと伝えられています。
実子で次男であるにも関わらず、秀康が3歳になるまで一度も家康は対面しませんでした。
この状況を不憫に思っていた、兄であり嫡男の信康が「弟に見参を許してほしい」と必死で
家康に懇願したと言われています。最初は渋っていた家康も信康の気迫に負け、
秀康との対面を許し膝の上に抱いたといいます。
秀康が馬場で馬に乗っていると、秀吉の家臣が別の馬に乗って競りかけてきました。
すると秀康は「自分に対して許しもなく競りかけてくるとは無礼である。」として
その家臣を斬り捨ててしまいました。このことを聞いた秀吉は「秀康は自分の養子であり、
その秀康に無礼を働くのは、わしに無礼を働くのに等しい。」と言い不問に付しました。
秀吉の死後、石田三成(いしだみつなり)が、豊臣家の武将達に命を狙われる
「7将襲撃事件」が起こり、家康が仲裁に入り三成が「佐和山城」で隠居することで、
事件は収まりました。(七将襲撃事件の黒幕は、家康ともいわれています。)
その際、大坂から「佐和山城」までの三成の護衛を任されたのが秀康でした。
佐和山城下で、石田家の家臣が出迎えに訪れた後も「命令通り城内まで送る」と譲らず、
自分の家臣を三成の護衛に付けることで、その安全を最後まで見届けたと言います。
この行動に感激した三成は、秀吉から授かった名刀「石田正宗」を秀康に贈りました。
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この家紋は「みぎみつともえ」紋といいます。
巴紋は縄文遺跡にもみられる非常に古い文様で、歴史上最初に登場する家紋と言われています。
公家、武家の家紋の他に、神社の神紋などにも使用されていたり、雷神が背負う太鼓にも
描かれているので、見る機会も多い文様です。由来は諸説ありますが「弓を射るとき手首に
つける皮革製の道具の形」を用いており、稲光や神霊が宿るとされる勾玉を由来とする説や、
蛇や人魂(ひとだま)水が渦を巻いて流れている様子が由来という説などがあります。
家瓦などに、この紋を使用しているのは、火災除けなどの意味があると言われています。
「3つのものが円を描くように渦巻いている」=3つのものが入り乱れている様子や3者が
入り乱れて対立するが、力が拮抗してる様子などに「三つ巴」(みつどもえ)という
言葉は現在も使われている言葉です。
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