徳川家康(とくがわいえやす)【1543年~1616年 享年75歳】
こんにちは、reopaです。case22は「徳川家康」さんです。
「江戸幕府」を開いたことで有名な家康さんですが、どんな
人物だったのでしょうか。今回は少し長くなります。
【銅像所在地】
【銅像所在地:静岡県 浜松市 中区元城町 浜松城】
浜松城本丸の家康の銅像は「若き日の家康公の銅像」です。
家康が手にしているのは「勝草」と呼ばれた「めでたい羊歯(しだ)」です。
人質生活を終え岡崎に戻った後に、本拠地を浜松に移した時に入城したのが「曳馬城」といい
家康の入城ごに築造したのが「浜松城」です。大きな勢力を持った戦国大名に囲まれ、
戦いを生き延びて天下盗りの夢をつかんだ場所が浜松城で、歴代城主の多くが後に江戸幕府の
重鎮に出世したことから「出世城」と言われています。
家康さんの生涯最大の敗戦と言われている武田信玄さんとの
「三方原の戦い」で九死に一生を得て逃げ帰ったのが「浜松城」です。
【家族構成】
戦国時代を終息させ「江戸幕府」を開いた有名な武将だね。
息子には有名な武将がいるけど、兄弟はあまり有名な武将はいないんだね。
確かに兄弟はいるけど、架空の人物扱いの人や異父兄弟・異母兄弟が
多く血の繋がりが薄くて、歴史上の有名人というと居ないと言えるね。
【人物像】
戦国時代に終止符を打った功績は大きいよね。「三英傑」である
信長さん・秀吉さん・家康さんを例えたホトトギスの話は有名だよね。
三人を例えたホトトギスの話は、子供の頃から覚えている言葉だね。
子供ながらに「短気は損気なんだ~」と感じたことを思い出すよ。
【時代背景】
護衛の田原城主・戸田宗光さんは織田家に竹千代さんを売り飛ばしたと
言われていて、ここから竹千代さんの長い人質生活が始まるんだね。
織田氏のもとで2年ほど過ごした竹千代は8歳になった時に人質交換で、今川氏の下へ
移されます。この時点で竹千代の父・広忠はすでに亡くなっており、次期城主である竹千代は
今川氏の人質として駿府で過ごしていたため、実質的に「岡崎城」は今川氏に支配されました。
竹千代さんは人質だったので、父・弘忠の死に目には会えなく
人質生活が終わり岡崎に戻ったのは19歳の時だと言われているんだ。
16歳の時、今川義元(いまがわよしもと)の勧めで、築山殿(つきやまどの)と結婚しました。
「桶狭間の戦い」では、松平元康(徳川家康)も今川軍として参戦していましたが、義元が
敗れたことを知ると、今川氏からの独立を図り岡崎に戻りました。
1562年(永禄5年)今川の支配から逃れた家康(いえやす)は、まず織田信長(おだのぶなが)と
面会し織田家に敵対する意思がない旨を告げ、信長と軍事同盟「清洲同盟」を結びました。
竹千代の元服後の名は「松平元信」→「松平元康」と変わり
「家康」と改名したのは岡崎に戻ってからということだね。
元服した翌年に岡崎に里帰りを許された時、家臣たちが食う物も食わず
家康さんが岡崎に帰った時の為に、軍資金や兵糧米を蓄えていたことを知り
家臣たちの気持ちに応えるべく強く自立を心に誓ったと言われているんだ。
1582年(天正10年)天下にとっても家康にとっても大きな事件が起こります。
信長が明智光秀(あけちみつひで)に討たれた「本能寺の変」です。
前日、家康は堺で商人と茶会を開いていおり茶会の翌日に信長の訃報を聞き付けました。
本能寺の変以降、家康は領主不在の甲斐・信濃・上野を攻略するために北条氏と同盟・縁戚関係を
結び、遠江・三河と併せて5ヵ国の大大名に上り詰めました。
家康さんは信長さんの死を知り、次に光秀さんに狙われるのは自分だと思い
「かくなる上は信長公の弔いとして知恩院で腹を切る!」と自害を考えたんでしょ?
家康さんのお供で境に同行していた家臣は34名といわれていて、
戦える状況では無かったんだ。自害を踏み止まらせ三河に帰り着いた
「神君伊賀越え」は、謎が多いけど有名な話だね。
「本能寺の変」で信長さんを討った光秀さんも、わずか13日で秀吉さんに
討たれたけど、本能寺の変では信長さんの後継者でもあった嫡男の
織田信忠(おだのぶただ)さんも自害に追い込まれていたんだね。
信忠さんは信長さんの後継者と決まっていたんだ。信長さんがあまりに
有名なので陰に隠れているけど、武田家を滅亡に追い込んだりしているから
生きていれば、歴史も違う方向に進んだ可能性はあるんだ。
1586年(天正14年)になると、秀吉は家康を服属させようと接近します。
臣従することを拒否していた家康に対して秀吉は、実妹の「朝日姫」(あさひひめ)を
家康の後妻として差し出し義兄弟になりました。
その後、家康は「大坂城」で秀吉に謁見し譜大名の前で忠誠を誓うことになります。
朝日姫を後妻に受け入れた後も、家康さんは秀吉さんの言う事に従わず、
秀吉さんは遂には、実母まで家康さんに人質として差し出したというから
秀吉さんは、家康さんを服属させるのに必死だったんだね。
実は「小牧・長久手の戦い」の和睦の条件として家康さんは、次男の
結城秀康さんを人質として秀吉さんに差し出しているんだけど、その
上で秀吉さんが母親と妹を人質として差し出すということは天下取りの
ためには、どうしても家康さんを服属させたかったんだろうね。
1590年(天正18年)の「小田原征伐」には豊臣軍として参戦し、大きな戦功を挙げます。
その後、家康は当時治めていた東海地方中心の三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を没収され、
代わりに関東管領として、まだ安定していない関東の8ヵ国を治めることになりました。
家康は故郷の三河を失うことになりますが、この移封に関して秀吉に逆らうこともできず
承諾します。秀吉は家康の力を怖れており、本拠地から離し関東に封じ込める狙いがありました。
「小田原征伐」は小田原城に籠城した「北条氏」を討伐して
秀吉さんが「天下統一」を果たした戦いなんだね。
「小田原征伐」の時点で家康さんは「北条氏」と同盟関係にあったため、
秀吉さんは征伐後も家康さんと北条氏が手を組むのを怖れて、小田原より
東に位置する江戸に移封したと言われているんだ。
関東に移封された家康は、領地経営や軍制改革に専念し有力な家臣を各地に配置するなどして
東国統治の地盤を強化していきます。秀吉の狙いであった「大きくなった家康の力を削ぐ」思惑
とは裏腹に家康は関東での支配力を拡大していきます。加えて家康は武田軍の旧家臣や北条氏の
家臣を迎え入れ、申し分ない軍事力を蓄えていったのです。
1598年(慶長3年)秀吉が没すると、家康は秀吉の遺言により「五大老」に着任します。
東国で着実に力を蓄えた家康は、いよいよ天下取りの最後の仕上げに踏み切ります。
1600年(慶長5年)「五大老」のひとり上杉景勝(うえすぎかげかつ)に謀反の疑いが
あるとして家康は「会津征伐」のために討伐軍を結成し挙兵します。
この挙兵は、のちに起きる「関ヶ原の戦い」のきっかけと言われています。
「五大老」の他に「五奉行」と呼ばれる人達もいたんだ。共に秀吉さんの
息子の豊臣秀頼さんが成長するまで豊臣家を守って貰うために
秀吉さんが設置した役職だけど、思惑通りにはいかなかったんだ。
秀吉の遺言を無視して行動する家康は次第に大きな力を持つようになりますが、その反対に
他の大名から非難され「五奉行」は怒り、その筆頭が石田三成(いしだみつなり)です。
家康が「会津討伐」のために出陣したことを機に、三成は諸国の大名に呼びかけ家康討伐の
兵「西軍」を結成します。三成の挙兵の報を聞いた家康は豊臣政権や石田三成らに反感を
抱いていた諸大名を招集して「東軍」を結成し、二大陣営が「関ヶ原」で激突します。
「天下分け目の戦い」と言われる「関ヶ原の戦い」は東軍の家康が勝利し、後の1603年
(慶長8年)朝廷から「征夷大将軍」に任命され、ここに「江戸幕府」が誕生します。
戦いの当初は「西軍」の優勢で進んでいたのに、結果は
「東軍」勝利で決着した理由はあるのかな?
「西軍」が負けた理由は様々あるようだけど、一番の原因は「西軍」の
総大将だった「五大老」の一人、「毛利輝元」さんが大阪城から一歩も
動かなかったからなんだ。仮に毛利軍が動いていたら「西軍」が勝利したと
言われているんだ。他にも裏切りや寝返りが沢山あったようだよ。
1605年(慶長10年)家康は将軍職を3男の「徳川秀忠」へと譲り、2年後には駿府城へと
移り住みますが「大御所」として陰ながら、政治の主導権を握り続けました。
大坂では徳川幕府の権力下になかった「豊臣秀頼」が、大名や公家に権威を保っていましたが
1614~1615年(慶長19~慶長20年)に起きた「大坂冬の陣・夏の陣」の激闘の末に
豊臣家が滅亡。 これをもって家康の天下掌握が完了することになりました。
【名言】
「不自由を常と思えば不足なし」
(不自由であることをあたり前と思えば、不満には思わない)
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」
(人生とは重い荷物を背負って遠くへ歩くことと同じ。急いでいくことでもない)
家康さんの「名言」からは、幼少期の人質時代に養われた
忍耐力を感じさせる言葉があるよね。
【愛刀】
【エピソード】
駿府で今川家の人質として幼少期を送っていた時、今川の家臣達が集まる機会がありました。
同席していた竹千代竹に家臣達は「あれが三河のいくじなしの小倅か」と皆で笑ったと言います。
これに竹千代は怒り、縁先に立って「小便」を始めました。本来ならば人質という肩身の狭い
身のため侮辱にも泣き寝入りするしかない場合も多い中で、大胆にも周囲をあざ笑うかのように
立ち小便をした竹千代に、幼少期の頃から「大物ぶり」と「負けず嫌い」な性格を感じる
エピソードです。忍耐強いイメージの家康ですが、若い頃は意外に血気盛んだったようです。
浜松城を拠点にしていた時の「三方ヶ原の戦い」で、家康は「武田信玄」に大敗します。
数の上でも経験の上でも格上の武田信玄に、果敢に戦いを挑んだことは後々「海道一の弓取り」と
賞賛されるのですが、実はこの時に敗走する馬上で「恐怖のあまり脱糞」をしてしまいます。
命からがら浜松城へ逃げ帰る家康に、家臣が脱糞したことについて突っ込むと、家康は冷静に
「これは味噌だ」と言い放ったといわれています。
家康はこの敗戦の悔しさを忘れないため、また自身の慢心を戒めるために自身の姿を絵師に
書かせました。これが有名な「顰(しかみ)像」です。
幼少期から人質生活を強いられた家康さんは「忍耐強い」イメージが
あるけど、青年期は「短期で無謀」壮年期は「狸おやじ」といわれていて、
様々な性格が見え隠れするんだね。
【家紋】
「葵の後紋」と言えば、一番ピンとくるのは水戸黄門の格さんと助さんが悪者を退治する時の
決め台詞「この紋所が目に入らぬか」で有名ですね。
徳川家康の家紋である「葵紋」は、フタバアオイと言われる植物を家紋としたもので、
京都にある「加茂神社の神紋が由来」となっています。
徳川家の前身の松平家の時代から葵紋を使用していましたが、そのきっかけはこの神社の
神官であった加茂氏と三河に住む武士団が非常に密接な関係であったためと言われています。
徳川家康の家紋である葵紋ですが、三河の酒井氏や伊奈氏なども使っていました。
家康の天下統一後は、徳川家の一部以外は使用禁止となり徳川宗家である将軍家とそれに連なる
御三家(紀州徳川家・尾張徳川家・水戸徳川家)または一門のみが葵紋の使用を許されるようになります。
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