伊達政宗(だてまさむね)【1567年~1636年 享年69歳】
こんにちは、reopaです。case1は「伊達政宗」さんです。
「独眼竜政宗」の異名で知られ、人気の高い武将である
政宗さんは、どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【家族構成】
政宗さんは、子供が沢山いたんだね。
側室が6人居たとも言われているんだよ。
【人物像】
幼名は梵天丸(ぼんてんまる)出羽の国出身の、安土桃山時代から江戸時代前期に
かけて活躍した武将で、仙台藩を開いた人物です。
「独眼竜」の異名を持ち、隻眼・黒い甲冑・三日月の兜が有名で現在でも、
とても人気のある武将です。
時代背景もあり「あと20年早く生まれていたら天下を取れた」とも言われています。
「独眼竜政宗」は有名な呼び名だよね。
三日月の兜も、かっこいいね。
呼び名からも、人気がある理由がわかるね。
ここからは、何をした人物なのか政宗さんの活躍を少し紹介するね。
【時代背景】
政宗は1584年(天正12年)18歳で家督を相続し伊達家17代の当主になります。
翌年、二本松城主の畠山義継の計略により父親の伊達輝宗が殺されました。
その翌年に政宗は、畠山氏及び奥羽大名との合戦で、畠山氏を滅ぼし父親の仇をとりました。
1589年(天正17年)「摺上原の戦い」で奥羽の大名である蘆名氏を滅亡させ奥州を平定。
23歳で奥州を収めるとは、伊達の軍隊も強かったんだね。
時を同じくして豊臣秀吉が天下統一を目指し北条家の討伐の為、諸大名に
「小田原征伐」への参陣を呼びかけますが、政宗は参陣が遅れてしまいます。
この件に怒った豊臣秀吉により政宗は箱根の山に幽閉され、後に会津などの
領土の一部を没収されてしまいます。
秀吉さんは「case27」で紹介しています。
秀吉さんの時は不運も有ったけど、家康さんの時は活躍だね。
兼続さんも有名な武将で、人気が有るんだよね。家康さんは
「case22」で紹介しています
政宗は、1613年(慶長18年)に支倉常長(はせくらつねなが)ら180人程を
遺欧使節として、貿易を目的にローマ・スペインに派遣しましたが、
幕府がキリスト教に対する弾圧を強めたため目的は、達成出来ませんでした。
1614年の「冬の陣」と1615年の「夏の陣」の2回に渡って行われた「大坂の陣」で
政宗は功績をあげ、戦は徳川軍の勝利で幕を下ろします。この戦が政宗最後の出陣です。
晩年は仙台藩の経営に力を注いだ政宗ですが、1634年(寛永11)頃から体調を
崩すようになります。
1636年(寛永13)参勤交代で江戸に向かい、3代将軍・徳川家光と謁見。
そして同年、参勤交代から1か月余りで政宗公はこの世を去ることになりました。
政宗さんの名言を紹介するね。
【名言】
『仁に過ぎれば弱くなる。義に過ぎれば固くなる。礼に過ぎればへつらいになる
知に過ぎれば嘘を吐く。信に過ぎれば損をする。』
(思いやりを持ちすぎると人として弱くなる。正義に固執すると頭が固くなってしまう。
礼儀も行き過ぎるとおべっかになる。よく物事を理解しすぎると嘘をつくようになる。
他人を信用しすぎると損をする)
『物事、小事より大事は発するものなり。油断するべからず。』
(物事というものは、小さな出来事が重なって大きな出来事になってしまう。
油断してはいけない )
今の時代でも、言えてる言葉だね。
【愛刀】
伊達政宗の愛刀は「燭台切光忠」 現在は、茨木県水戸市の徳川ミュージアムに保管されています。
伊達政宗の黒甲冑と兜は仙台市博物館に保管られています。
簡単だけどエピソードを載せますね。
【エピソード】
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際の、伊達政宗が率いた軍隊が派手な甲冑を纏い、
おしゃれな馬鎧を着せ馬に乗っていた為、それを見ていた京都の人々が
「粋でかっこいい格好をした男性」を「伊達男」と言う様になったと伝わっています。
政宗は「瑞鳳殿」に埋葬されており、調査の結果によると身長159.4cmで、
当時の平均的な身長だったようです。
【家紋】
伊達氏の家紋は複数ありますが、政宗の家紋といえば「竹に雀」の家紋だと思います。
この家紋は「仙台笹」ともいわれ、仙台藩伊達氏の定紋とされています。
この家紋の由来は、政宗の大叔父にあたる「伊達実元」という人物が、越後の「上杉定実」の
養子になる時に、婿に対する引き出物としてこの家紋を譲り受けたと伝えられており、
養子の話は無くなったのですが、伊達氏ではこの家紋を大切に使っていました。
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