日本武尊/倭建命(やまとたけるのみこと)【生年不明~113年】
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こんにちは、reopaです。case8は「日本武尊」さんです。
数々の伝説をもつ「古代史の英雄」である日本武尊さんは
どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:茨木県 行方市 井上 玉清井神社】
古典の「常陸国風土記」(ひたちのくにふどき)に日本武尊と父親の景行天皇が登場します。
その「常陸国風土記」による日本武尊のエピソードを二つ紹介します。
「日本武尊が東方遠征の途中この地を通り、清泉の湧き出るのをみて、これをすくおうとし、
誤って曲玉を水中に落としてしまった。」
この池に大切な曲玉を落としてしまったんですね。
「槻野(つきの)の清泉においでになり、水辺で手を洗い、玉で井を清められたので、
この泉を玉の清井と言う」ということです、この像は願い清めている姿といわれています。
この玉清井は、現在でも水が滾々と湧いているようです。
【家族構成】
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「日本書紀」と「古事記」で呼び方や伝承が、変わるからその点は留意して
読んで欲しいですね。
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そうなんだ、人物像などの捉え方や伝わる話が全然違う方向だったりね。
因みに、神話の話だけど日本武尊は身長3mを超えるイケメンなんだ。
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日本武尊さんの奥さんの弟橘媛さんは
「case12」で紹介しています。
【人物像】
日本武尊(やまとたける)は、大和朝廷が勢力をのばしていた時代に各地で伝えられた
様々な英雄の話が、一人の人物の話としてまとめられた英雄と見られています。
『日本書紀』では「日本武尊(やまとたけるのみこと)」『古事記』では
「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。 日本書紀と古事記で人物像も分かれ、
その系譜など、知名度が高く人気がありながら謎多き神様です。
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神話時代の話は、ファンタジー性があって他の時代の話と
雰囲気が違うよね。
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神話時代の話は、おとぎ話の雰囲気もあるからね。
ここからは、逸話を交えて見ていこうね。
【時代背景】
日本武尊の最初の呼び名は、小碓命 (おうすのみこと)という名前です。
父である景行天皇が目に掛けた女性を、双子の兄の大碓命(おおうすのみこと)が
横取りしたことに怒って兄を殺します。父は、小碓命の狂暴な性格をおそれて、
朝廷に従わない南九州の豪族である「熊襲」(くまそ)を討ちに行かせます。
小碓命は、伊勢に赴き叔母の 倭比売(やまとひめ)から女性の衣装を授けられます。
小碓命は九州に入ると貰った衣服で女装し、熊襲建(くまそたける)の宴会に紛れ込み
兄弟を殺します。 熊襲建の弟は死に際に「大倭国には我ら二人より強い男がいた」と
小碓命の武勇と勇気を称えて「日本武尊/倭建命( やまとたける) 」の名を与えました。
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父親の景行天皇は日本武尊を恐れて、傍に置きたくなくて
各地に派遣したのは、本音の話なのかな?
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熊襲討伐を命じられたのが、16歳の時というから
まだ、若い日本武尊の心は揺れ動いたんだろうね。
日本武尊は、その帰りに西国各地の反乱を平定して大和に戻りますが、景行天皇に命じられ
すぐに「東国遠征」に出ることになります。東征の途中で再び倭比売がいる伊勢神宮に立ち寄り、
「我が父である天皇は、僕など死んでしまえと思っていらっしゃるのでしょう」と訴えます
これを聞いた倭比売は、日本武尊を憐れみ「草薙剣」と危急の時に開くべき袋を与えて、
東国へ送り出しました。
遠征中に地元の豪族の企みで火攻めにあいますが、日本武尊は賊の火攻めを草薙剣で
退けて窮地を脱し、東国各地の平定を進めていきます。
しかし、妃の一人である弟橘媛が荒れ狂う海に人身御供として入水する悲劇にあいます。
その後、病魔に身体を蝕まれた日本武尊は、苦しみながら故郷の大和に帰ろうとしますが、
ついに力尽きて伊勢の能褒野(のぼの)の地で生涯を終え、その霊は白鳥となり大和に向け
飛び去ったと伝えられています。
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「日本書紀」と「古事記」では、草薙の剣の話が違ったりするね。でも、
日本武尊と弟橘媛の話は、悲しいけど二人の絆を感じる心温まる話だよね。
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日本武尊と弟橘媛のお互いを思う気持ちが、わかる話だね。
その辺りの話は、弟橘媛の銅像紹介の時に少し話すよ。
【名言】
『倭(やまと)は国のまほろば たたなづく 青垣(あおがき) 山隠(やまごも)れる
倭しうるはし』
(大和は国のなかでも最も優れた国である。畳(たたみ)重ねたようにくっついた、
国の周囲を廻る、青々とした垣のような山々の内に籠っている。大和は美しい」
【愛刀】
草薙の剣:皇室の三種の神器の一つで国宝、 「熱田神宮のご神体」として祀られている。
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草薙の剣は、皇室に伝わる国宝の一つなんだね。日本武尊は天皇では
ないけど、息子の「仲哀天皇」さんから天皇の家系が続いていくんだね。
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「日本書紀」と「古事記」の表現の違いを、一部だけど紹介するね。
【エピソード】
日本書紀では「父である景行天皇からも深く愛された英雄」
古事記では「父である景行天皇から距離を置かれた悲運の王子」
日本書記と古事記では様々な面で、内容が異なる箇所はありますが、
日本武尊は、熊襲征討・東国征討を行ったとされる、日本古代史上の伝説的英雄です。
日本武尊は昭和20年(1945年)に発行された千円札の肖像画に採用されています。
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