平清盛(たいらのきよもり)【1118年~1181年 享年64歳】

2023年5月23日広島県,銅像平安時代,平清盛,瀬戸公園

【銅像所在地】

reopa

こんにちは、reopaです。case34は「平清盛」さんです。
武士の身分が貴族よりかなり低い時代に武士の身分を高め
宋との貿易「日宋貿易」を積極的に進めた平清盛さんは、
どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地:広島県 呉市 警固屋 瀬戸
 「音戸の瀬戸」と呼ばれる海峡は、広島県呉市の本土側と倉橋島の間にある
海峡で平清盛」が切り開いた海峡として伝えられています。

 海流が早く予定通りに工事が進まず、完成予定日を迎えた当日の夕方に、
平清盛は山に登り沈みかけている太陽に向かい、金の扇をかざし沈まんとする
太陽を呼び戻し
無事に工事を完了したと言われており「音戸の瀬戸公園高烏台」
には、伝説により「平清盛の日招き像」が建てられています。

また、日招き像から少し離れた場所に平清盛が、日招きをしたとされる岩がのこっており、
清盛の立派な足跡と、杖を突いたというくぼみのある「日招き岩を見ることができます。

音戸の瀬戸は、潮の流れが早く岩礁もあることから、開削は難しいと
言われていたのに、清盛さんは「1日で切り開いた」のは凄いね。

reopa

当時は、難工事を行う際に工事の完成を祈願して、神様の加護を得る為に
「人柱(ひとばしら)」をたてた
時代だけど、清盛さんは人命を尊重して
石に心を込めてお経を書いて海に沈め
人柱の代えとして祈願したと言われているんだ。

【家族構成】

父:平忠盛(たいらのただもり) 母:不明で育ての母は祇園女御(ぎおんのにょうご)
弟:平家盛(たいらのいえもり) 平経盛(たいらのつねもり)
  平教盛(たいらののりもり) 平頼盛(たいらのよりもり)
  平忠度(たいらのただのり)  
妻:平時子(たいらのときこ) 
息子:長男 平重盛(たいらのしげもり) 次男 平基盛(たいらのもともり)
   三男 平宗盛(たいらのむねもり) 四男 平知盛(たいらのとももり)
   五男 平重衡(たいらのしげひら) その他に息子2人娘7人 

【人物像】

 平清盛は、1118年(永久6年)「桓武天皇」(かんむてんのう)の子孫にあたる
伊勢平氏の棟梁である平忠盛の嫡男として誕生しました。
清盛は平安時代末期に活躍した武将で、武家の立場を向上させ平家繁栄の基礎を作った
人物です。当時の貴族社会では、武士の身分は政治を司る貴族よりもずっと低く、若い
頃は父親共に苦労をしました。そんな境遇の中で朝廷や貴族と関係を深め、武士としては
初めての太政大臣に昇格するなど、目覚ましい活躍を見せ、清盛は貴族社会の中で日本の
政治の中心を公家から武家へと動かした人物と言われています。
晩年は、宋との貿易「日宋貿易」で日本国内の貨幣経済の基盤を整えました。

【時代背景】

 当時は、公家社会であり政治の中心(摂政・関白なども)も公家で、武家はそれよりも
身分が低い扱いをされていました。その様な中で、1132年(長承元年)に父である平忠盛が
鳥羽上皇(とばじょうこう)への忠節や働きなどが認められ、京都にある天皇の住居の
清涼殿(せいりょうでん)への出入りを許される貴族となりましたが、多くの貴族の反感を
買うことになります。しかし、清盛も武士ながら父と同じく貴族になることができました。

清盛さんの活躍は、父親である忠盛さんが苦労して築いた
基礎
の上に成り立つことを、忘れてはいけないんだよね。

reopa

そうだね、父親の忠盛さんが天皇との関係を築き、公家社会から
武家社会に移行する切っ掛けを作った
んだからね。

 1153年(仁平3年)に父・忠盛が亡くなり、その跡継ぎとして清盛は棟梁となります。
1156年(保元元年)後白河天皇(ごしらかわてんのう)と崇徳上皇(すとくじょうこう)の
皇位継承問題が原因で「保元の乱」(ほうげんのらん)が勃発します。
清盛は源義朝(みなもとのよしとも)と共に後白河天皇側につき、崇徳上皇側との戦いに
勝利しました。この乱以降、朝廷内の武士の立場は大きく増すことになります。

後の世で有名になる「源平合戦」の主役である源氏と平氏の
台頭が、はっきり表れたのが「保元の乱」なんだね。

reopa

保元の乱は、身内が敵味方に分かれて戦うことになり、清盛さんは
叔父を義朝さんは父親や弟達を処刑することになる悲しい乱なんだ。

 清盛と共に「保元の乱」を戦った源義朝は、後の待遇に不満を持ち挙兵し、
1159年(平治元年)「平治の乱」(へいじのらん)が起こりました。
この乱で、源義朝は後白河上皇の側近だった藤原信頼(ふじわらののぶより)と手を組み、
同じく上皇の側近の藤原通憲(ふじわらのみちのり)を自害に追い込み、上皇を
幽閉しますが、清盛は後白河上皇を助け出し、かつての盟友の義朝を討伐します。

 清盛は、1167年(仁安2年)に「太政大臣」の役職に就任しますが、
その後、清盛は太政大臣を辞して家督を長男の平重盛に譲り政治の一線から退きます
翌年の1168年(仁安3年)清盛は病にかかり、病の最中に出家し「清蓮」と名乗ります。
隠居の身となった清盛は、港の修復に取り組み瀬戸内海を利用した「日宋貿易」を開始。
宋と日本の貿易は行われていましたが、清盛によって日宋貿易はさらに発展を遂げました。
瀬戸内海水運の発展に力を入れていた清盛は「厳島神社」を手厚く保護していたと言います。

厳島神社の立派な寝殿造りの社殿は、清盛さんが造営したものと
伝えられているものだね。

reopa

清盛さんはある日、夢をみたそうなんだ。夢には僧が出てきて、清盛さんに
厳島神社を造営すれば、必ず位階を極めるだろう」というお告げをしたと
言われているんだよ。

 また清盛は天皇家と外戚関係を持ち、孫の安徳天皇(あんとくてんのう)の外祖父として
さらに権力を強化。しかし、平氏の力を警戒する後白河法皇と清盛の関係は悪化します。
法皇を中心にした清盛襲撃の陰謀が発覚した「鹿ヶ谷事件」(ししがたにじけん)が起き、
清盛は理不尽な行為を続ける法皇を幽閉し後白河院政を止め、政権を独裁しました。
しかし繁栄しすぎた平氏への周囲の反感は強まり、ついに以仁王(もちひとおう)の反乱を
機に源氏が再起
します。各地で源氏が挙兵する中、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡する
4年前の1181年(治承5年)に、清盛は熱病で死亡します。

以仁王は、宇治川で敗死してしまうけど、その願いは源氏に託され、後の
源頼朝さんや木曽義仲の挙兵につながっていくんだね。

reopa

清盛さんが進めた、こうした権力の独占がかえって反対勢力の結集を促し、
平氏の没落を早める結果となってしまったんだよ。清盛さんの孫である
安徳天皇は清盛さんの妻時子さんに抱かれて壇の浦に身投げしたと言われています。

【名言】

表から見える慎重を裏から見ての不決断という
(状況の変化を見つめ、慎重に考えるのは良いことだが、いつかは決断を下さなければならない)

reopa

平家にあらずんば人にあらず」という言葉を聞いたことがある人は
多いと思うけど、清盛さんの言葉だと勘違いしている人も多いようだね。
この言葉を残したのは「平時忠」さんという人物なんだ。

【エピソード】

 なにかと悪いイメージがある平清盛ですが、実はとても温厚な人物で度量があり
他人の失敗も怒鳴り散らすことのない穏やかな人物
であったとの話も沢山あります。
・どんな嫌なことも笑って受け止める
・誰かが不都合な振る舞いをしても笑って許した
・身分の低い者をその家族や知人の前で一人前の家臣として扱い本人がとても喜んだ
・幼い従者を自分の衣の裾に寝かせ、朝寝坊してもそのまま寝かせてあげた
等の話が伝えられています。

清盛さんの「奢る独裁者」や「悪逆非道な人物」といった人物像は、
作られたイメージということなのかな?

reopa

清盛さんの悪いイメージは、鎌倉時代に書かれた「平家物語」の描写の
せいかもね。平家物語が書かれた当時は、頼朝さんが開いた鎌倉幕府の
全盛期であり、あえて清盛さんや平氏を悪とすることで、勝利した源氏が
いかに正義であるかを説いている内容だからね。

 平治の乱で藤原信頼・源義朝軍に勝利した清盛は、処刑の決まっていた源頼朝の命を助けます
清盛の義母の池禅尼が、頼朝の幼さを理由に助命嘆願した事で罪を減ぜられ、伊豆に流罪と
なりました。頼朝だけではなく源義経も清盛の優しさにより死罪を免れたと言われています
助けたこの二人が、後に平家の滅亡に影響を与える事になるとは、皮肉な結末です。

 清盛さんは、実は白河法皇のご落胤(らくいん)説もあるんだよね?
*落胤(らくいん)とは父親に認知されていない子供のこと。

reopa

事実はわからないけど、清盛さんの母親は白河法皇の寵愛を受けた後に、
清盛さんの父である忠盛さんに嫁いだから、その説があるんだろうね。

【家紋】

平清盛の家紋「蝶紋」

 平清盛は家紋に「蝶紋」である「揚羽蝶」を使用していました。
この「揚羽蝶紋」を最初に使用したのが、平氏であると言われています。
平清盛で有名な平氏が文様として使用されていた蝶を家紋に用いたことで全国的に普及しました。
蝶紋が拡大することになった理由はあり、まずは女性に好まれるデザインであったことです。
蝶紋は羽を広げた蝶が描かれており、これが優美だとして多くの女性の心を掴んだといわれます。
そして、もう一つの理由としては「蝶の成長する過程」が関係しています。
蝶は卵から生まれ、幼虫→さなぎ→蝶という流れで成長していきます。
脱皮をし、美しい羽を持つ蝶として空に羽ばたいていくことが縁起が良いとして好まれました。 

2023年5月23日広島県,銅像

Posted by reopa