源頼朝(みなもとのよりとも)【1147年~1199年 享年53歳】

2023年6月13日神奈川県,銅像源頼朝,源氏山公園,鎌倉時代,平安時代

reopa

こんにちは、reopaです。case14は「源頼朝」さんです。
鎌倉幕府を開いた英雄」で知られる頼朝さんは、どんな
人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:神奈川県 鎌倉市 扇ケ谷 源氏山公園】
 源氏山の名前の由来としては、麓に源氏の屋敷があったからとする説が有力です。
源氏山公園にある源頼朝の像は、頼朝の鎌倉入り800年を記念して建てられたものです。
鎌倉の中心にある源氏山は、源義家(八幡太郎)が「後三年の役」に出陣の際、この山に
源氏の白旗を立てて戦勝を祈願したことから付けられた名だといわれ「旗立山」とも呼ばれる。
近くには、鎌倉の七切通しの一つである、国の史跡・化粧坂切通し(けわいざかきりとおし)
もあります。

【家族構成】

父:源義朝(みなもとのよしとも) 
母:由良御前(ゆらごぜん)熱田神宮の宮司「藤原季範」(ふじわらすえのり)の娘
兄:源義平(みなもとのよしひら) 源朝長(みなもとのともなが)
弟:源義門(みなもとのよしかど) 源希義(みなもとのまれよし)
  源範頼(みなもとののりより) 阿野全成(あのぜんじょう)
  源義円(みなもとのぎえん) 源義経(みなもとのよしつね)
妻:北条政子(ほうじょうまさこ) 他に前妻と妾がいました。
息子: 源頼家(みなもとのよりいえ)/源実朝(みなもとのさねとも) 他に2男2女

頼朝さんは兄弟がとても多いんだね、個人的には義経さんが好きです。
息子の頼家さんが、鎌倉幕府の2代将軍で実朝さんが、3代将軍だよね。

reopa

義経さんは「case36」で紹介しています。
頼朝さんの息子たちの紹介も考えていきたいね。公家中心の
政権から武士による政権を、築いた頼朝さんの活躍を見ていこう。

【人物像】

 幼名は鬼武者(おにむしゃ)源義朝と由良御前の三男として尾張(現在の愛知県名古屋市)で
生まれました。源頼朝(みなもとのよりとも)と言えば、鎌倉幕府の初代将軍です。
圧倒的な指導力と統率力で、源氏・東国御家人をまとめ上げ「平家滅亡」を成し遂げました。
また、政治の実権を朝廷から奪って武家政権を確立。容姿端麗・頭脳明晰・武術にも長けた
優れた武将です。実母が正室だったために生まれてからすぐに後継者としての高い教育を
受けて育てられた、とても優秀な人物です。

頼朝さんの母親が、義朝さんの正室なので嫡流を継いだ息子とは言え、
沢山の兄弟の中から後継者としての期待に応えたのは素質を感じるね。

reopa

生まれ持った才能や運も有ったのは確かだと思うけど、
鎌倉幕府を開くまでには、様々な苦労もしているんだよ。

【時代背景】

 1159年(平治元年)13歳の時に実母が亡くなり、同年父と共に
平清盛」(たいらのきよもり)を、打倒するため平治の乱に初陣します。
しかし、平治の乱に敗れて捕らえら、父・源義朝は死刑。頼朝も死刑になるはずでしたが運良く、
敵である平清盛の義母「池禅尼」(いけのぜんに)によって助命され、1160年(永暦元年)から
20年もの間、伊豆国(現在の静岡県南部)の蛭ケ小島(ひるがこじま)に流刑となりました。

時代的に当たり前なんだろうけど、13歳の子供が初陣って考えられないよ。
囚われの身となっても殺されずに、流刑で済んだのは強運に助けられてるね。
平清盛さんは「case34」で紹介しています。

reopa

父親と共に死刑になるはずの頼朝さんを助けたのが、池禅尼さんなんだけど
その理由が、頼朝さんの容姿端麗な面も影響したとも伝えられているんだ。

 頼朝は、捕らわれの身でありながらも学問を究めて、史上有数の政治家へと成長します。
伊豆の地で、後白河上皇(ごしらかわじょうこう)と平氏との間に展開する政治情勢の
変化を的確に把握していたと言われています。
1177年(治承元年)30歳のとき、伊豆国の豪族である「北条時政」(ほうじょうときまさ)の
娘「北条政子」(ほうじょうまさこ)と、周囲の大反対を押し切り恋愛結婚します。
頼朝のことが好きで諦められない政子は、駆け落ちをして第1子を出産し結婚を認められます。

時政さんは流罪となった頼朝さんの監視役だから、娘との結婚には
反対せざるおえない立場だっただろうね。それにしても政子さんの
行動力と芯の強さが分かるエピソードだね。

reopa

政子さんには、父親が決めていた婚約者がいたと言われているんだ。
その立場から逃げ出して頼朝さんとの人生を選んだんだね。
流刑の立場で政子さんと出会い北条家との縁を掴んだのは、頼朝さんも

選ばれし人だね。政子さんについては、いつか紹介する機会を作るよ。

 1180年(治承4年)後白河上皇の皇子「以仁王」(もちひとおう)が、平氏打倒を
発令します。頼朝は北条家の後ろ盾を得ながら東国の豪族をまとめ上げ、宿敵の平家滅亡の
ために挙兵します。以仁王と源頼政(みなもとのよりまさ)は「宇治平等院の戦い」に敗れて
早々に戦死。その機を逃さず、平氏は詔を受けたすべての源氏追討に宣戦布告をします。
これを受け頼朝は、東国の武士達に挙兵を呼びかけ、多くの仲間を得て出陣を決意します。

頼朝さんは、仲間を集めるために挙兵参加者に所領の安堵を保証したり、
敵方の没収した土地を分け与える制度を作って士気を上げたんだよね。

 1181年(治承5年)に平清盛が病死すると頼朝は、源義仲(みなもとのよしなか)を討伐します。
1184年(元暦元年)に「一ノ谷の戦い」、次の年に「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」を起こし、
ついに平家を滅亡させるのです。
しかし、平家滅亡の最大の功労者と言われる、腹違いの弟である源義経(みなもとのよしつね)を
謀反の疑いで追討し義経をかくまっていた奥州藤原氏をも滅亡させてしまいます。

reopa

頼朝さんは、よく居る独裁者タイプではなく部下の特徴などを良く理解して
適材適所の役割を与えて任せたといられているんだ。
人の心を掴むのが上手かった事にくわえ、組織作りが上手いんだね。

 頼朝は関東を平定し、1190年(建久元年)に上洛。
後白河法皇(ごしらかわほうおう)後鳥羽天皇(ごとばてんのう)に謁見して「権大納言
右近衛大将」に任命されますが、満足せず両職を辞退してしまいます。
しかし、1192年(建久3年)「征夷大将軍」に任命され、鎌倉の地に鎌倉幕府を開くのです。

 頼朝と政子は、5人の子どもに恵まれますが、全員亡くなっています。
また、妾との間に1人も子どもがいなかったので、頼朝の血は耐えてしまいました。
鎌倉幕府を開いた頼朝ですが、頼朝の死後たった3代で源氏は滅亡してしまいます。

色々な面で優れた才能をみせて鎌倉幕府を開いた稀代の武将の
子孫が僅か3代で滅亡したのは、すごく残念なことだね。

reopa

先代があまり優秀だと後が続かないことは、良くあることだよ。
鎌倉幕府が、僅か3代で滅びたのも頼朝さんが偉大過ぎたのかもね。

【名言】

身を重くし心を長くして、あだ疎かに振舞はず、小敵なりとも侮る心なくて、
物騒がしからず計らひ、たばかりをするが、能き事にてあるぞ。

(自分の身を重々しく、気長に心をたもち、軽々しい行動はせず、小敵を見てもこれを侮らず、
冷静にじっくりと計略を練るのがよい。)

慎重に物事を分析し行動する、頼朝さんらしい名言だね。
個人的に一つ心残りが有るんだけど、義経さんと仲良くして欲しかった。

【愛刀】

源氏の宝剣髭切/鬼切(ひげきり/おにきり)→重要文化財(北野天満宮)

reopa

武家中心の政治という新たな歴史を作り、鎌倉幕府を開いた
優秀な武将であり政治家でもあった頼朝さんのエピソードを紹介します。

【エピソード】

 源頼朝は、自ら前線で戦うことは少なかったようです。自分で何でもやりたがる、よくいる
独裁者ではなく、部下を信じ各現場を代理指揮官と軍監にゆだねる軍制を考案したのです。
これは世界的に見ても先駆けで、御家人ひとりひとりの顔・名前・特徴を把握し適材適所に配置
任せる手法で、御家人の心をひとつにまとめ上げる組織作りを果たしました。
半面、武芸に長けた頼朝は、源氏の宝剣である「髭切」(ひげきり)を所持しており、
いざというときには、相手を確実に惨殺したといわれています。

 徳川家康は、頼朝の築いた武家政権を手本にして江戸幕府を作ったと言われています。
頼朝が考案した武家政権の軍制システムは、江戸幕府が終わるまで約700年間、続きました。
北条政子は、頼朝のことを「官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い」と述べました。
頼朝は、鎌倉幕府を開き権力の上に胡坐をかいて威張る人物ではなく、人々が平和に暮らせる
国づくりを目指し、日本の基礎を創った真に優れた人物だったのです。

家康さんは「case22」で紹介しています。

【家紋】

源頼朝の家紋「笹竜胆」

 家紋の文化は公家(貴族)が発祥ですが、それが武士達に広まったのは平安末期の
平氏滅亡後
と言われています。それまでの源平合戦期は源氏なら白い(又は南無八幡大菩薩)旗、
平氏なら赤い(又は南無妙法蓮華経)旗を掲げて敵味方を識別していました。
しかし「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡した後は、ほとんどの武家が源氏の味方となっているので
識別のためにも、家紋を持つように指示が出たと言われています。
頼朝は「無地の白旗を掲げる資格があるのは源氏の嫡流である自分一人」という
メッセージを込めて「無紋(白無地)」をシンボルとしていました。
したがって「笹竜胆」は、頼朝の家紋といわれていますが、使用していない可能性が高いです。
「笹竜胆」の家紋を用いていた源氏と言えば「村上源氏」が有名です。

2023年6月13日神奈川県,銅像

Posted by reopa