南部師行(なんぶもろゆき)【生年不明~1338年】
こんにちは、reopaです。case3は「南部師行」さんです。
君主に最後まで同行した「忠義の人」として知られる師行さんは
どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:青森県八戸市根城 八戸市博物館】
顕家と共に陸奥に赴任した師行は、根城を築き職務に努めますが、足利軍との戦で
戦死します。その後も師行の子孫たちは「根城南部氏」と呼ばれ、300年にわたり
この地に住み続けましたが、遠野に領地替えが行われ根城の役割が終わりました。
現在でも、師行を偲び「根城記念祭」が開かれています。
また、本丸の主殿や納屋・馬屋などの建物を復元し「史跡根城の広場」として整備されています。
【家族構成】
父:南部政行(なんぶまさゆき)三戸南部氏12代当主
母:南部実継(なんぶさねつぐ)の娘。
兄:南部時長(なんぶときなが) 弟:南部政長(なんぶまさなが)
師行さんには、資行さんという弟がいたという話もあるようだね。
弟の資行さんについては、資料がなくてどんな人物かわからなかったよ。
続いて師行さんが、どんな人物なのか簡単に紹介するね。
【人物像】
南部政行の次男として生まれた、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将です。
母の兄の南部長継(なんぶながつぐ)の養子となり家督を継ぎ、甲斐国波木井郷
(山梨県身延町)の領主となりました。
甲斐国といえば、駿馬の産地として知られており、馬術に練達した人々が多く、
師行も馬術に長けており、騎馬隊を駆使して戦場で縦横に活躍しました。
師行さんは、軍馬を育てる役職を任されていたみたいだね。
でも、騎馬隊だから銅像は軍馬に乗っているのかな?
【時代背景】
鎌倉幕府が、滅んだ後も北条氏の残党の鎮圧などで
師行さんは、活躍していたんだよ。
新田義貞さんは「case10」で、紹介しています。
一方、公家統一を願う御醍醐天皇は、吉野(奈良)に朝廷を開き「南朝」政権をたてます。
こうして朝廷は京都と吉野に分かれ、公家も武士も二手に分かれて争います。
これが世にいう60年間近く続いた「南北朝時代」です。
後醍醐天皇さんが、公家中心の政治ではなく、公家も武士も
大切にすれば、無駄な戦がなかったのかもね。
北畠顕家率いる奥州軍は、最初の戦いで新政府に背いた足利尊氏に勝利しますが、
九州で体制を立て直した足利軍が再び京都に攻め入ります。
延元2年(1336年(延元2年)南部師行は、北畠顕家と共に出陣します。
一年近くも各地で戦を繰り広げた結果、大阪の堺浦の南にある石津川のほとりで、
北畠顕家と師行は部下108人と共に、壮絶な最後を遂げました。
最後の最後まで総大将の北畠顕家と行動を共にし、忠誠を尽くした師行は奥州を
出発する前に遺言を残しています。
「この度の上洛は厳しく、おそらく自分は討死するだろう、しかし自分が戦場の露と消えても、
悲しまず節操を曲げずに忠節を貫徹したことを喜んで欲しい。
そして自分達南部一族が奥州に多くの土地を得られたのは、顕家と帝の恩恵があったからこそで、
今後どんなことがあっても敵の足利軍に寝返ってはならない。」 師行の子孫はその遺言を守り、
政長、信政、信光、政光と5代に渡り、南朝方への忠誠を守り続けたと言われています。
師行さんは、最後まで顕家さんに忠義を通した武将だったんだね。
戦死覚悟の戦の前に残した遺言を見ても、気持ちが分かるよね。
【エピソード】
大阪の天王寺駅近くに顕家を祀る「阿倍野神社」があります。
その拝殿の側には、師行をはじめとする戦死した忠魂を祀る功の宮があります。
また、二人が戦死した堺市の石津には、川沿いの小さな森の中に「源顕家、南部師行」と
二人の名前が刻まれた、石の五輪塔(供養塔)が建てられています。
一方、八戸の根城本丸跡では、慰霊祭が毎年、行われています。 これは甲斐国からこの地に
赴き城を築き、その後大阪で戦死した根城の城主・南部師行を偲び、お祀りするものです。
顕家さんと師行さんの、絆の強さがわかる供養塔があります。
また、甲斐国の人々からも慕われているんだね。
【家紋】
1411年(応永18年)南部守行は根城南部光経とともに秋田の安東鹿季と戦った際に
その陣中に二羽の鶴が飛来し、それを瑞祥として兵を進めたところ、勝利をおさめることが
できたと伝えられています。戦後これを記念して家紋を「二羽鶴」に改めました。
二羽の鶴が向かい合った「向鶴(むかいづる)」は「双鶴紋(そうかくもん)」とも呼ばれ、
おめでたいことの前兆から生まれたと伝えられています。
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