新田義貞(にったよしさだ)【1301年~1338年 享年37歳】

2023年6月13日群馬県,銅像新田義貞,新田荘歴史資料館,鎌倉時代,南北朝時代

reopa

こんにちは、reopaです。case10は「新田義貞」さんです。
鎌倉幕府を滅ぼした武将」で有名な義貞さんは、どんな
人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:群馬県 太田市 世良田町 新田荘歴史資料館】 
 「新田荘」(にったのしょう)は、新田氏の開祖である新田義重が、
荒廃した土地を再開発した荘園のことをいいます。
「太平記」によると、義貞が刀を海に投げ入れると海の水が引け、
そこを渡って幕府軍を攻撃し勝利を収めたとあります。
そのときの、竜神に祈っている様子を表現したのが、この銅像です。
また、義貞は後醍醐天皇の命を受け生品神社で、鎌倉幕府を倒すために挙兵しました。

【家族構成】

父:新田朝氏(にったともうじ) 母は諸説あるが不詳。
弟: 脇屋義助(わきやよしすけ)
妻:勾当内侍(こうとうのないし)
息子:長男 新田義顕(にったよしあき) 次男 新田義興(にったよしおき)
   三男 新田義宗(にったよしむね)

息子の義顕さんは、父親より先に亡くなってしまったんだよね。
義興さんは「矢口渡」の義興の怨霊の話がある怖い人なんだ。
義宗さんは、義興さんと挙兵して一時、鎌倉を落とした武将さんです。

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義興さんの母親の身分が低かった為に、新田家の嫡男は義宗さんなんだ。
でも、義興さんと義宗さんは、あの足利尊氏軍を破り鎌倉奪還を一度は
成し遂げた勇敢な武将なんだよ。

【人物像】

 新田義貞は、幼名を小太郎(こたろう)といい、新田氏本宗家の新田朝氏の
嫡男として生まれ、本名は源義貞(みなもとのよしさだ)といいます。
新田義貞と言えば、難攻不落といわれた鎌倉幕府を滅ぼした人物であり、
鎌倉幕府討伐後の、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)による、政治改革「建武の新政」樹立の
立役者の一人ですが、その後は共に鎌倉幕府討伐で活躍した足利尊氏と対立しました。
新田家の義貞と足利尊氏は、同じ源家を先祖とする同族同士で、両家共に立派な家柄でした。
義貞は日本一の至誠の武将と言われた悲劇の武将です。

新田家は、あの源家と同族の家系なんだと聞いたことがあるよ。
でも、何故か新田家は鎌倉幕府内で冷遇されていたいたんだよね。

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その通りなんだ、実際に義貞さんも幕府内では一御家人だったからね。
ここからは、義貞さんの活躍した時代背景を見ていこう。

【時代背景】

 義貞は父の朝氏が死去後、16歳で家督を継ぎます
1331年(元弘元年)後醍醐天皇と楠木正成(くすのきまさなり)は、鎌倉幕府の倒幕を目的に
「元弘の変」を起こしますが失敗し、後醍醐天皇は隠岐(おき)に島流しになります。
開戦時に義貞は、幕府側に付き千早城の戦いに参加しますが、途中で離脱し帰国します。

楠木正成さんは「case13」で紹介しています。

 その後、幕府から重い徴税を課され我慢の限界にきていた義貞は、徴税に訪れた
幕府の役人2人を切り殺すという事件を起こし領土を没収されます。
この処分に憤慨した義貞は、反幕府の態度を表すようになり幕府も義貞討伐に動き出します。

この離脱は、仮病説が有力なんでしょ?重い徴税の件含め
義貞さんは、幕府に見切りを付けていたようだね。

 幕府討伐のために義貞が挙兵すると、各地から反幕府に立ち上がろうと兵が集まりました。
義貞軍は「分倍河原の戦い」「関戸の戦い」にて北条軍を撃破します。
稲村ケ崎では、崖下は満潮で渡る事ができない時に、義貞が太刀を海に奉じると、
龍神が現れ海水が引き出し干潮になったと言われています。
追い込まれた北条軍は、北条氏の菩提寺「東勝寺」で、北条高時(ほうじょうたかとき)と
家臣870人ほどが自害します。
義貞は、わずか15日で難攻不落と言われ150年続いた鎌倉幕府を滅亡させました。

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源頼朝さんが開いてから、150年続いた難攻不落の鎌倉幕府を、
滅亡させたことは時代の変化を生んだんだ。
この戦には、足利尊氏さんの息子を含む足利軍も参戦していたことを
忘れてはいけないよ。

 鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇は、天皇中心の政治「建武の新政」を行いますが、
この政治は公家中心であったため、武士階級は反発する事になります。
1336年(建武3年)足利尊氏が、光明天皇(こうみょうてんのう)を立て「北朝」と称し、
後醍醐天皇に譲位を迫りますが、後醍醐天皇は皇位は自分の「南朝」にあると主張し、
朝廷が二分し「南北朝時代」に突入、後醍醐天皇は「南朝」の総大将に義貞を抜擢しますが
1338年(建武5年)「藤島の戦い」にて戦死、享年37歳でした。
そんな歴史の大転換点をつくった義貞が、歴史の表舞台で活躍したのはわずか6年ほどです。

後醍醐天皇さんの公家中心の政治の結果が、共に鎌倉幕府を滅亡させた
尊氏さんと義貞さんが、争うことになったのは悲しい結末だね。
37歳で亡くなった義貞さんは、生きていたらもっと活躍したと思う。

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後醍醐天皇さんの目指した政治に、翻弄された武将は他にもいるんだ。
有名なところでは、楠木正成さんが該当するよ。
今後、正成さんも紹介するから待っていてくださいね。

【愛刀】

源氏の宝刀「鬼切安綱」(おにきりやすつな)→重要文化財 (北野天満宮)
「鬼切安綱」は、源頼光(みなもとよりみつ)が天照大御神(あまてらすおおみかみ)
から授かったとされる物です。

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義貞さんの、エピソードを紹介します。

【エピソード】

 後醍醐天皇に支持し、様々な戦いで功績を残しても、幕府から冷遇された義貞。
なぜ、そこまでして後醍醐天皇に尽したのか、疑問の一つといわれています。
1882年(明治15年)義貞は「ぶれることなく南朝に尽くした正義の人」と称され、
正一位の官位が与えられ、鎌倉幕府を滅ぼした悲劇の武将は、やっと報われたました。

 妻の「勾当内侍」は、もともと後醍醐天皇の侍女でしたが、討幕の恩賞として内侍を
義貞の妻としました。
義貞が討ち取られて首が晒されたとき、内侍はその首を盗んで埋め、自分は尼となって
生涯その墓を守ったという言い伝えがあります。
その地が現在の「花見塚公園」で、勾当内侍の墓と義貞の首塚が並んで弔われています

【家紋】

新田義貞の家紋「一つ引き両紋」

 新田義貞の家紋は「一つ引き両紋」とよばれています。
横線を意味するものとして諸説ありますが「」を表していると伝えられています。

平安時代の末期に起きた「源平合戦」の際に、源氏は白幕を使用していました。
源氏方の武将は、源氏の白幕に配慮しそれぞれに陣幕を用いたとされています。
その際に新田家は1本線」を用い「足利家は2本線」を用いたと言われています。

南北朝時代の戦」で、新田義貞は足利尊氏に敗れましたが、この時に横線ひとつの
新田は一匹の竜だから二匹の足利竜に挟み討ちされて 負けたのだと言われたようです。

2023年6月13日群馬県,銅像

Posted by reopa