東郷平八郎(とうごうへいはちろう)【1848年~1934年 享年88歳】
こんにちは、reopaです。case11は「東郷平八郎」さんです。
「日露戦争」の英雄として知られている平八郎さんは、どんな
人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:埼玉県 飯能市 坂石 秩父御嶽神社(東郷公園)】
「秩父御嶽神社」は、鴨下清八(かもしたせいはち)により、1895(明治28)年に
開かれた「木曽御嶽山の分霊」を祀る神社で、東郷元帥に縁のある「東郷公園」を
神苑にしています。世界で唯一東郷平八郎の許可を得て作られた銅像や「日露戦争の遺物」
「戦艦三笠被弾甲板」が、飾られ現在では「乃木希典」(のぎまれすけ)陸軍大将銅像も
建立されています。
【家族構成】
長男の彪さんは官僚になって、次男の実さんは海軍少尉。
娘の千代子さんは、海軍の少尉の方に嫁いで東郷家は、
海軍に縁があるんだね。
他の子孫の方にも、海上自衛官などがいるから、
東郷家は平八郎さんの血を継いでいるんだね。
【人物像】
東郷平八郎は、東郷実友の四男として鹿児島城下の下加治屋町に生まれました。
平八郎は、日露戦争で世界屈指の戦力を誇ったロシアのバルチック艦隊を破って、
日本を勝利に導いた「日本海海戦の連合艦隊司令長官」です。
日露戦争終結後、世界中でその功績が讃えられ、その性格から「沈黙の提督」と言われ、
世界三大提督の一人に称される程、世界でも有名な人物です。
平八郎さんは、各国から恐れられていたロシアのバルチック艦隊を、
完全に撃破した英雄なんだね。
ナポレオンの侵略を防いだ、イギリスの「ネルソン提督」と比較され、
「西のネルソン・東の東郷」と、並び称されているんだ。
【時代背景】
戊辰戦争では軍艦「春日」に乗り組み、榎本武揚(えのもとたけあき)の
旧幕府艦隊と戦い、1871年(明治4年)に、国家間の法律を学ぶため7年間イギリスに渡りました。
帰国後、海軍にもどり軍艦「扶桑」の乗組員に、その後は軍艦の副長や艦長を経て
海軍大佐となり、1891年(明治24年)に巡洋艦「浪速」の艦長となります。
あくまでも噂の話だけど、平八郎さんのイギリス留学を助けたのが、
西郷隆盛さんだと言われているんだ。
日露戦争前に連合艦隊司令長官に就任し、1904年(明治37年)に始まった
「日露戦争」に参戦。ロシアのバルチック艦隊を撃滅し世界中に名を轟かせることになります。
バルチック艦隊を全滅にまで追い込んだ「T字戦法」は、後に「東郷ターン」と呼ばれます。
アジアの小さな国だった日本が、大国ロシアの艦隊に大勝利したことは世界列強が驚き、
平八郎が「世界の東郷」となった瞬間でした。
日露戦争の勝利に歓喜したのは日本だけではなく、常にロシアの脅威に怯えていた
「トルコ」もそのひとつでした。
大国に勝利しただけではなく、さらには捕虜になったロシア兵達を手厚く介抱したり、
自国での軍法会議を恐れたロシア士官を日本に留まらせ自由を与える対応などで、
トルコでは特に東郷が称えられ、生まれてきた子供に「トーゴー」と名付ける人が、
沢山いたという話も残されているほど、トルコでの東郷フィーバーは凄かった様です。
平八郎さんの人気の秘密は、バルチック艦隊を全滅させた事だけではなく、
敵国のロシア兵に対する接し方などに、人間性が現れているんだね。
誠実な人柄だったんだね、人の上に立つ器の大きさを感じる行動だね。
平八郎さんの人柄を感じる名言を見てみよう。
【名言】
「愚直と笑わるるとも、終局の勝利は必ず誠実な者に帰すべし」
「咲くもよし散るもよし野の山桜、花のこころは知る人ぞ知る」
【愛刀】
「吉房」(よしふさ)→重要文化財(東郷神社)
「備前国住長船十郎左衛門尉春光」
(びぜんのくにじゅうおさふねじゅうろうさえもんのじょうはるみつ)→重要刀剣
イギリス留学前は大変なお喋りで、時に大久保利通さんに叱られたという
平八郎さんですが、エピソードも紹介します。
【エピソード】
日露戦争終結後、世界中でその功績が讃えられた東郷平八郎は、
大正時代に入ると「東宮御学問所総裁」となり「昭和天皇」の教育係に就任します。
1934年(昭和9年)平八郎は病気でこの世を去り、翌月に国葬が行われ
軍神として神社に祀られる事になりました。
旧大日本帝国海軍の士官学校である海軍兵学校において用いられた、
五つの訓戒「五省」です。
至誠にもとるなかりしか(誠実さを失っていることはなかったか)
言行に恥ずるなかりしか(言葉と行動に恥じるところはなかったか)
気力に欠くるなかりしか(気力に欠けているところはなかったか)
努力に憾みなかりしか(努力に足りないことはなかったか)
不精にわたるなかりしか(何をするにもめんどうくさがっていないか)
世界初のニュース雑誌「TIME」の表紙に日本人として初めて掲載されたのも東郷平八郎です。
また、肉じゃがを日本で初めて作ったのも平八郎といわれています。
【家紋】
蔦の文様を使う家紋は多く「十大家紋」の一つでもあります。
蔦の葉の美しさに加え這って上に伸びる逞しさと、多くの葉を付けることから
「子孫繁栄」を連想させる家紋として人気があります。
蔦の文様は、徳川八代将軍吉宗が好んだ家紋としても有名です。
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