熊谷直実(くまがいなおざね)【1141年~1207年 享年66歳】
こんにちは、reopaです。case28は「熊谷直実」さんです。
弓矢の名人であり、頼朝に「日本一の剛の者」と称えられ、
坂東武者である直実さんは、どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:兵庫県 神戸市 須磨区 須磨寺】
須磨寺は、源平の「一の谷合戦」の舞台であり、源氏の大将「源義経」の陣地だったと
伝えられています。「熊谷直実」は、その戦の源氏方の武将です。
一の谷合戦での「平敦盛・熊谷直実の一騎打ち」の話は「平家物語」の中でも、
最も悲しい哀話である「敦盛最後」で、後世に語り継がれています。
須磨寺は、敦盛の菩提寺として知られ、源平ゆかりのお寺として親しまれています。
境内には敦盛の首塚が祀られ、須磨寺宝物館には敦盛の愛用した、通称「青葉の笛」が
展示されています。写真の直実像は「枯山水庭園」にある「源平の庭」と呼ばれる、
平敦盛・熊谷直実の一騎討ちの場面を表現した像です。
「青葉の笛」は、直実さんに討ちとられた敦盛さんの腰に結ばれた
袋の中から見つかった、敦盛さん愛用の笛と伝えられているんだよね。
須磨寺には「青葉の笛」とは別に、細身の「高麗笛」がもう一本
伝わっているんだ。敦盛さんは笛の名手で「一の谷の戦」の時も
吹いていて、源氏方の直実さんたちも聞いていたと言われているんだ。
【家族構成】
父:熊谷直貞(くまがいなおさだ) 母:久下直光(くげなおみつ)の妹
兄:熊谷直正(くまがいなおまさ)
妻:不明(ふめい)
息子:長男 熊谷直家(くまがいなおいえ) 次男:熊谷実景(くまがいさねかげ)
三男 熊谷直勝(くまがいなおかつ)
【人物像】
幼名を弓矢丸(ゆみやまる)といい、1141年武蔵国熊谷郷(現・埼玉県熊谷市)を
本拠地とした、熊谷直貞(くまがいなおさだ)の次男として生まれました。
平安時代末期から鎌倉時代初期の勇猛な坂東武者で、その名のとおり弓の名手だったと
言われています。「一ノ谷の戦い」以降は戦に参加せずに出家した話は有名です。
出家後は法然(ほうねん)に、弟子入りし「蓮生」(れんしょう)と名乗り熱心な
念仏信者となり、京都・東山で修行を重ね、各地にいくつかの寺院を開基しました。
その数奇な一生は「平家物語」や歌舞伎・浄瑠璃などの文学や演劇の世界でも語られています。
信長さんが、本能寺で最後に舞ったのが「幸若舞」の「敦盛」と
言われているんだよね。
「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり
ひとたび生を受け 滅せぬもののあるべきか」という、
少し寂しさを感じる有名な歌だね。
【時代背景】
直実さんが、敗走する平氏の武将を呼び止め組み付いた後に、首を
取ろうとした相手が、息子と同じ位の年齢で美貌の若武者だった
「敦盛」さんだったんだよね。
若武者の敦盛さんを見た直実さんは、助けようと思ったけど、源氏方の
軍勢が近くまで来ていて、助ける事が出来ないと判断し直実さんが、
自ら敦盛さんの首を落とす覚悟をし、悲しくて泣いたと言う話だよ。
直実さんを語るとき、どうしても敦盛さんの話が出てしまうね。
直実さんが敦盛さんに名前を聞くと「名乗らなくとも、誰かに首を
見せれば、私を知っている者がいるだろう」と言ったんだよね。
敦盛さんの首と笛を持ち帰り「義経」さんに見せたところ、
敦盛さんだとわかり、同席していた家臣もみんな泣いたというから、
本当に悲しい雰囲気の状況だったんだろうね。
敦盛を討った後は、戦の無慈悲さを感じ、直実は以後の戦に参加しませんでした。
また、平家との戦いが終わった後に、源頼朝との不和や久下直光との自領の相続争いなど、
様々な事に悩み考えた直実は、なんの為に生きなんの為に戦うのかなど、今までの人生を
振り返る事になり、無慈悲さと罪悪感を感じる日々を送っている時に出会ったのが当時、
浄土宗を開いたばかりの法然(ほうねん)でした。
鶴岡八幡宮での流鏑馬の「射手と的立」役を割り振られ、直実さんは
上手の的立を命じられたけど、これを断わったために頼朝さんの怒りに
触れ、所領の一部を没収される事になったんだよね。
更に所領問題で熊谷と久下の境界線を巡る裁判が、頼朝さん立ち合いで
開かれた際に弁論が不得手な直実さんが不利な状況に追い込まれ、それに
激怒した直実さんは書類を投げ捨て、その場を出ていってしまったんだ。
直実は「私はこれまでの戦で、たくさんの人を殺めましたが、極楽往生するためには
今からどうしたらいいでしょうか」と、法然に真剣に尋ねました。
法然は、これに対し浄土宗の教え通り「今までの罪や行いに関係なく、念仏を唱えることで
救われます」と答えました。この話に感銘した直実は、京都で法然の弟子となり「蓮生」と
名乗りました。蓮生は、1193年(建久4年)法然生誕地に「誕生寺」を建立したのを皮切りに、
各地に寺院を建立し、阿弥陀如来の本願を説いて人々を救う人生を送ったと言われています。
直実さんが出家した理由には諸説あるけど、一番の原因は
敦盛さんを討つときに感じた、武士という立場の無常なのかな?
武士としての生き方より、人としての生き方を考える事になる
出来事が重なった結果だと思われるね。出家する事で直実さんが
救われたのは、間違いないと思うよ。
【名言】
「あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、
何とてかかるうき目をばみるべき。」
(ああ、弓矢を取る身ほど残念なものはない。武芸の家に生まれなければ、
どうしてこのようにつらい目には会うことがあろう。)
直実さんの逸話で有名な敦盛さんとの一騎打ちや、信長さんとの不和、
直光さんとの所領争いなどは前述したので、エピソードでは
「東行逆馬」を紹介します。
【エピソード】
法然の元で出家した蓮生法師(直実)は、京都で修業に励んでいる際、故郷熊谷へ
一時帰ることとなりました。その時、西の方にはお釈迦様がいらっしゃるという教えを守り、
お釈迦様にお尻を向けることはできないと、馬の鞍を前後反対に乗せ、西に正面を向いて馬に
逆さに乗ったまま、熊谷までの帰路についたという逸話です。
【家紋】
熊谷氏の家紋は「寓生(ほや)に鳩」と呼ばれる有名な家紋です。
「石橋山の戦」に敗れ、落ち延びた頼朝が、洞穴に潜んでいるのを見つけた直実は
寓生(ほや)で、頼朝の身を隠した時に、洞穴から二羽の鳩が飛び立ったことで
「人は見当たらず」といい、頼朝の窮地を救ったと言われています。
後に直実が頼朝の家臣になった際、その時の事を憶えていた頼朝から、送られた家紋が
「寓生(ほや)に鳩」です。
現在では平和の象徴とされている鳩ですが、かつては「八幡大菩薩」の使いと信じられ、
武神である八幡神の使いの鳩は、いわば「勝利のシンボル」でした。
平安時代以降に、軍旗にあしらわれることも多く、守り神としての意味合いが強い紋様です。
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