藤原清衡(ふじわらのきよひら)【1056年~1128年 享年73歳】

2023年6月10日秋田県,銅像平安の風わたる公園,藤原清衡,平安時代

reopa

こんにちは、reopaです。case5は「藤原清衡」さんです。
国宝である「中尊寺金色堂」を建立したことで有名な
清衡さんは、どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:秋田県 横手市 金沢中野 平安の風わたる公園1】
 「平安の風わたる公園」にある「西沼」「後三年の役」の戦の舞台となった場所です。
真衡の死によりその領地は、義家の采配で清衡と家衡に平等に分け与えられたのですが、
それに不満を持ったのが家衡が原因で、勃発したのが「後三年の役」です。
最終的に勝者となった清原清衡ですが、養子であるため清原氏の血は流れていません
家衡は清原氏と血の繋がりのない、清衡と平等に土地が分けられたのが気に入らなかったのです。

後三年の役の有名な逸話の一つに「雁行の乱れ」があります。
「源義家の軍が家衡軍の籠もる金沢柵へ行軍中に、西沼の付近を通りかかった際、義家は雁の列が
林の上で乱れ飛んでいたのを見て、敵が待ち伏せしていることを見破り不意打ちを受けることなく
敵兵を殲滅することに成功しました」
西沼は「雁行の乱れ」の舞台なのです。
義家は後に、鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たります。

「平安の風わたる公園」は、後三年の役の古戦場だった西沼のほとりに広がる歴史公園。
公園の中には古戦場の地図が配置してあり、園内には源義家・清原家衡・清原武衡といった
武将の銅像や、合戦の様子が描かれたレリーフなどが設置されています。

【家族構成】

父:藤原経清(ふじわらのつねきよ)
母:有加一乃陪(ありかいちのまえ)安部頼時(あべのよりとき)の娘
息子:藤原基衡(次男)奥州藤原氏第二代当主

清衡さんには、兄弟が義兄弟も含めると4人いたと言われているけど、
子供も6男3女いたから、複雑な家族構成になったと伝えられているね。

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勢力争いとか家督争いとか、血縁関係をむすぶとか
色々な状況があるから、複雑な環境になるんだよね。

【人物像】

 陸奥国の豪族である藤原経清と有加一乃陪の嫡子として生まれ、東北地方で藤原家の
栄華を築いた、平安時代末期の陸奥の豪族で、「奥州藤原氏の祖」です。
清衡は、一族の内紛「後三年の役」で、源義家(みなもとのよしいえ)と手を結び、
異父弟の清原家衡(きよはらのいえひら)を滅ぼし、陸奥と出羽を支配しました。
平泉に「中尊寺」を建立し、死後のミイラ化した遺体は中尊寺金色堂に安置されています。

金色堂」は、国宝建造物第一号と聞いたことがあるよ。
清衡さんだけでなく、子孫の棺も安置されているんだよね。

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中尊寺には、その他にも国宝や重要文化財が、3,000点ほど収容されていて
建物は「世界遺産」なんだよ。

【時代背景】

 父・経清(つねきよ)は、1051年(永承6年)から始まった「前九年の役」で、
源頼義(みなもとのよりよし)に敵対した、安倍氏に味方し「厨川の戦い」で戦死します。
その後、清衡(きよひら)の母親が、敵将だった清原武則(きよはらのたけのり)の
長男である清原武貞(きよはらのたけさだ)に嫁ぎ、その養子となったことで、
清衡(きよひら)は、命を救われる
事になりました。
かつての敵同士が家族となった清原家の抗争は後に、清衡・家衡の兄弟対真衡(さねひら)の
争いとなり、1083年(永保3年)の「後三年の役」という形になって現れました。

清衡さんは、政略結婚で命拾いをしたんだね。
敵同士が、家族になるって心中も複雑なんだろうね。

 当時の陸奥守だった源義家(みなもとのよしいえ)が真衡(さねひら)を支援したため、
清衡(きよひら)と家衡(いえひら)は義家(よしいえ)に降伏することになりますが、
その後、真衡(さねひら)が急死します。
そこで、義家(よしいえ)は清衡(きよひら)と家衡(いえひら)とで、清原氏の所領を
分割させ配分しましたが、その取り分に不満を持った家衡(いえひら)が、今度は
清衡(きよひら)の妻子などを皆殺しにします。
難を逃れた清衡(きよひら)は、後に家衡(いえひら)を討伐し、陸奥と出羽の所領を
手に入れ、これを機に実父の姓である「藤原」を名乗り、奥州藤原氏の祖となりました。

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領土の配分に納得が出来ないから、親族の妻子を殺すのは理解できないね。
その行動がなければ、家衡さんも討伐されずにすんだのかもね。

 奥州政治文化の中心都市建設を目的に、1108年(天仁元年)には中尊寺建造を開始し、
そこから平泉は発展していきます。
三陸海岸沿いには幾つかの金鉱山があり、奥州は豊かな金の産地として事業を支えました。
さらに、貿易にも熱心だった清衡(きよひら)は、北方貿易を行い珍しい物品・産物の輸入
で莫大な利益を得たのです。
これにより、野蛮な蝦夷や俘囚の住む土地だと思われていた平泉は、京に続き高度で
華やかな文化の香る日本第2の都市となりました。
彼を初代として続いた奥州藤原氏の繁栄は、4代泰衡まで約100年間続くことになります。

清衡さんは、戦だけではなく政策にも長けた人だったのが、わかるね。
平泉の金色堂で、大切に亡骸を保存されている理由が理解できたよ。

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清衡さんが、いかに優れた人物だったか、少しでも知って欲しいから
エピソードも見てね。

【エピソード】

 清衡の思いは、平和な世の中をつくることでした。 中尊寺の建立も、たび重なる戦により
命を落とした敵味方を含めた全ての人々の霊を慰なぐさめ弔うためでした。
中尊寺を建立するにあたり清衡は『中尊寺建立供養願文』というものを書いています。
これは、争いのない平和な国にすることを誓った宣誓書のようなものです。
このように平和な世の中を目指して国造りをはじめた例は、世界の歴史の中でも極めて
珍しい事
だといわれています。

2023年6月10日秋田県,銅像

Posted by reopa