聖徳太子(しょうとくたいし)【574年~622年 享年48歳】

2022年10月24日滋賀県,銅像聖徳太子,市神神社,古墳時代,飛鳥時代

reopa

こんにちは、reopaです。case25は「聖徳太子」さんです。
徳のある聖なる人」という意味を持つ呼び名を持ち、複数人の
言葉を同時に理解した
と言われる聖徳太子さんは、どんな人物
だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:滋賀県 東近江市 八日市町 市神神社】 
 聖徳太子といえば、奈良県が頭に浮かびますが、滋賀県にも聖徳太子に纏わる
物語や伝承が多くあります。近江七福神のひとつ「市宮ゑびす」の名で親しまれている
市神神社」もその一つです。

 聖徳太子が「瓦屋禅寺」で大阪の「四天王寺」の瓦を焼くために土を掘りできた
溜池に人が集まってきたので、市場を開くことを教えたとされています。その時、商売が
発展するよう聖徳太子自ら彫られた「ゑびす大神」の神像が御神体として祀られており、
商売繁盛の神様として信仰を集めています。

市神神社では、聖徳太子像だけでなく地域の方より奉納された「えびす像や大黒像」も、
大事に保管されており、その数は500体におよぶと言われています。

聖徳太子さんが彫られた神像が、御神体である「ゑびす神」の胎内に
安置されているから、拝観することは出来ないんだよね。

【家族構成】

父:用明天皇(ようめいてんのう) 母:穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
兄:田目皇子(ためのみこ) 
妻:刀自古郎女(とじこのいらつめ) 
息子:山背大兄王(やましろのおおえのおう) 

reopa

数々の奇跡的な伝説を残しながら、その存在の有無を議論される
太子さんの人物像と、生きたとされる時代をみていこう。

【人物像】

 聖徳太子は、574年(敏達天皇3年)用明天皇(ようめいてんのう)の第二皇子として
生まれました。天皇中心の「中央集権国家」を目指し「推古天皇(すいこてんのう)」の
摂政として活躍した飛鳥時代の政治家です。生前は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と
呼ばれており、聖徳太子の名前は死後につけられたものです。
日本がまだ国として十分に整っていなかった時代に、聖徳太子は仏教を取り入れ、
役人の制度や心得を示し国の基盤づくりに貢献しました。 
昔から信仰の対象とされ「太子信仰」なるものがあり「救世観世音菩薩」の化身としても
仰がれています。

【時代背景】

 581年に「」(ずい)」が分裂状態の中国を統一すると、当時の日本である「(わ)」は
隋の脅威にさらされることになります。また、倭の国内では豪族同士の争いが絶えませんでした。
聖徳太子は、倭を天皇中心の「中央集権国家」としてまとめ、独立国として隋と対等な外交を目指
しました。593年(推古天皇元年)聡明な女性と言われている「推古天皇(すいこてんのう)」
が、天皇に即位すると聖徳太子は、摂政に任命されました。聖徳太子は、蘇我馬子(そがの
うまこ)と協力して「中央集権国家」を目指し革新的な政治を行いました。

太子さんの父親である用明天皇さんや推古天皇さんの母親は、
馬子さんのお姉さんの「蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)」さんで、
太子さんと曽我氏は関係が深いんだね。

reopa

そのうえ、太子さんの妃である「刀自古郎女」さんは、馬子さんの娘さん
だし、この時代の天皇を含めた権力者の殆どは、蘇我家に関係が有るね。

 603年(推古天皇11年)聖徳太子は「冠位十二階」を制定しました。冠位十二階とは、
日本で初めての「」の制度で、それまでの「世襲制」の「氏族制」とは違い個人の功績に
対して「位」が与えられる制度です。この制度は、家柄に関係ない人材登用だけではなく豪族達を
天皇に仕えさせる
きっかけとなりました。翌604年(推古天皇12年)には「十七条の憲法」を
制定し役人や豪族が守るべき道徳が示されており、朝廷に仕える心構えを説きました。

推古さんが進めた「二頭政治」で太子さんは、優れた政治家の
イメージが強いけど、馬子さんのイメージが湧かないんだよ。
それと、用明天皇さんの後に即位した「崇峻天皇さんは?

reopa

実は「崇峻天皇」さんは、馬子さんの甥なんだけど、思うように
ならないから馬子さんに暗殺されたと言われているよ。その後に即位
したのが、推古天皇さんで推古さんは、馬子さんの独裁制を抑える為に、
太子さんを摂政にして「二頭政治」を進めたんだ。

 607年(推古天皇15年)聖徳太子は、当時の先進国せある「」の文化・学問・技術を
学ぶ
ために「遣隋使」として「小野妹子(おののいもこ)」らを派遣します。これには、
中国との国交を再開する目的もありました。聖徳太子が隋の皇帝「煬帝(ようだい)」に
宛てた国書の 「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
(日の昇る国の天子から日が沈む国の天子に手紙を送ります。お変わりありませんか)で
始まる手紙は、中国の皇帝を激怒させますが、結果的には隋に倭を独立国と認めさせることに
成功しました。

妹子さんは、生没年が不詳で女性だった説もあるよね。
太子さんからの手紙に激怒した「煬帝」さんが、太子さんに
向けた手紙を妹子さんは「無くした」と言ったのは、本当?

reopa

煬帝さんからの手紙を無くした妹子さんは、島流しの刑に処され
るんだけど、実は手紙の内容が太子さんに見せられないと思い、
わざと捨てたという説もあるんだよ。

 聖徳太子の理想は、後の「天智天皇」である「中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)」や
天武天皇(てんむてんのう)」に引き継がれていきます。また、仏教を信仰し現在の
大阪府に「四天王寺(してんのうじ)」奈良県に「法隆寺(ほうりゅうじ)」を建て、
仏教を日本に広めたという業績も残しています。太子によって建てられた四天王寺や法隆寺は
飛鳥文化(あすかぶんか)」の代表例です。

太子さんは「十七条憲法」の制定後は、政治家ら距離をおいて
仏教の布教に注力したんだよね。

reopa

そうだね「斑鳩宮(いかるがのみや)」に移り住んだ太子さんは、
中国の経典の注釈した「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と呼ばれる
書を記したんだ。これは、日本の仏教における原点的なものだね。

【名言】

和を以て貴しとなす
(和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい)
一人断らずべからず、必ず衆と共に宜しく論ずべし
(物事はひとりで判断してはいけない、必ずみんなで論議して判断しなさい)

【エピソード】

 聖徳太子は、実在の人物ではないとの説もあります。「厩戸皇子は、実在の人物であるが、
聖徳太子は、実在しない架空の人物である
」といわれています。 理由の一つは「聖徳太子に関する
確実な史料は存在しない
」ためです。現在ある「日本書紀」や「法隆寺の史料」は厩戸皇子の
死後1世紀も後の奈良時代に作られたものです。それゆえ聖徳太子は、架空の人物であるという
ことです。しかし、聖徳太子には「二歳で念仏を唱えた」「一度の10人の話が聞けた
予知能力があった」など、数々の伝説があり謎の多い人物です。

2022年10月24日滋賀県,銅像

Posted by reopa