徐福(じょふく)【生没年不明】

和歌山県,銅像弥生時代,徐福,徐福公園,縄文時代

reopa

こんにちは、reopaです。case30は「徐福」さんです。
中国統一を果たした秦の「始皇帝」の命を受け、不老不死の仙薬
探す旅
に出たことで有名な徐福さんは、どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:和歌山県 新宮市 新宮 徐福公園】 
徐福公園は、元々この地にあった徐福の物といわれる墓を中心に整備された公園です。
中国風の極彩色の「桜門」は鮮やかで公園の目印としても目をひきます。

 公園内には、徐福の7人の主要な従者の墓と言われる「七塚」があり「不老の池」には
7人の従者を象徴した7本の石柱があります。
また、徐福の墓の脇には、徐福の求めた「不老不死の霊薬」の正体ではないかといわれる
天台烏薬(テンダイウヤク)の木が植えられています。

【家族構成】

父:不明(ふめい) 母:不明(ふめい)
兄:不明(ふめい)
妻:不明(ふめい) 
息子:不明(ふめい) 

徐福さんの家族については、諸説あるようだけど、
確定している情報が無いようなので、ここでは不明とします。

【人物像】

 幼名は(フツ)といい、2200年程前の中国の戦国時代」の元王族の出身
いわれています。徐福は高名な「方士」で、方術を使い仙術・医術・薬学・天文学に
長けた人物
であったと伝えられています。「始皇帝」の命を受け「不老不死の仙薬」を
求めて海を渡たり日本に漂着したともいわれおり、各地に沢山の伝説が残る人物です。
実は、中国の伝説上の人物なのか、実在した人物なのか定かではありませんが、徐福は
紀元前278年生まれで、紀元前219年頃に船団を率いて日本に上陸し、それから紀元前208年に
死去するまでの11年間を、日本で暮らしたという説があります。
この頃の日本は、縄文時代が終わり弥生時代に変わろうとしていた頃で、
あの「卑弥呼」が登場する400年ほど前の時代の人物です。

始皇帝さんといえば「万里の長城」や「兵馬俑(へいばよう)」が有名
だね。始皇帝さんの墓には、約8000体もの実物大の兵士や馬の陶製模型
が収められているけど、そんな絶大な力を持つ始皇帝さんも老化は防げない
問題だったんだね。

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始皇帝さんは、神仙の術を行う「方士」を全土に派遣し不老不死の薬を
探させたんだ。徐福さんは中国から向かって東方にある仙人が住むと
いわれる「蓬莱島」に派遣されたんだけど、それが日本なんだ。

【時代背景】

 中国統一を果たし、絶大な権力と富を手にした始皇帝ですが、絶対の権力者の彼でさえ
自分の思い通りにならないものが「老い」と「でした。始皇帝は「方士」を集め
不老不死の薬を探させました。この中の一人が始皇帝からの信頼も厚い「徐福」です。
徐福は始皇帝に、はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)
という三神山」があって仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出ました。
始皇帝はその願いを聞き入れますが、徐福は何も得る事が出来ずに帰国しました。

莫大な資金を使ったのに、何もなかったとは報告が出来ない徐福さんは、
「鯨に阻まれてたどり着けませんでした」と始皇帝に報告したんだよね。

reopa

何も成果の出せなかった他の「方士」が、打ち首にあった等の
話もあるから、徐福さんは嘘を付いたんだろうね。

 徐福を信頼していた始皇帝は、徐福に大勢の技術者や若い男女を与え、再度探索の
許可を出しました。この時の船団には、3000人の人たちと財宝や五穀の種子を積んでいた
いわれています。こうして船出した徐福一行は、どこかの島にたどり着きますが、そのどこかの
島というのが、日本だと伝えられています。
淮南衡山列伝」で、徐福は「平原広沢(広い平野と湿地)を得て王となった」
記述されており、中国に帰る事はなかったと伝えられています。

中国を船で出た徐福さんが、日本にたどり着き中国には帰らずに永住し、
その子孫が「秦(はた)」と名乗ったとする「徐福伝説」が日本各地に
伝わっているんだよね。

reopa

徐福さんの、渡来伝説は日本各地に伝えられているけど、それが事実なのか
伝説なのか確証を得るものは無いんだけど、人々に遥か古代の歴史ロマンを
与えてくれていることは確かだね。

【エピソード】

 中国や日本には、徐福=神武天皇とする説があります。中国を出るときの徐福の船には、
稲など五穀の種子と金銀・農耕機具・技術(五穀百工)が、積まれていたと言われてます。
稲作は弥生時代初期に大陸や朝鮮半島から日本に伝わったとされますが、実は徐福が伝えたのでは
ないかという話もあり、徐福が日本の国つくりに深く関わる人物だとの見かたもあります。

 徐福は、司馬遷が記した中国の歴史書でも有名な「史記」をはじめ、他の史書にも
登場しますが、話の荒唐無稽さもあり長らくその存在じたいが疑問視され、あくまでも
伝説上の人物という見方が強かった様です。その認識を覆したのは、江蘇省に「徐阜村
という地名が見つかり調べてみると、この村は清の初め頃までは「徐福村」と呼ばれていた
ことから徐福が実在の人物だと認識されることに繋がりました。

和歌山県,銅像

Posted by reopa