源義経(みなもとのよしつね)【1159年~1189年 享年31歳】

2023年5月23日徳島県,銅像平安時代,源義経,旗山

reopa

こんにちは、reopaです。case36は「源義経」さんです。
源頼朝の弟であり「壇ノ浦の戦い」で、平家を滅ぼした
最大の功労者と言われる
源義経さんは、どんな人物だった
のでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:徳島県 小松島市 芝生町 宮ノ前 旗山】
 義経が源平合戦の「屋島の戦い」へと向かう前に立ち寄ったのが、旗山だと伝えられており
義経ゆかりの地」です。
小松島に上陸した義経は、旗山の山頂に源氏の白旗を掲げ、軍の士気を高めたと言われています。

義経像は、旗山の頂上にあり弓の高さまで入れると6.7メートルあり「日本一の高さの騎馬像
です。他にも、旗山には八幡神社」と「王子神社が鎮座しています。

屋島の戦い」と言えば、義経さんが大軍の襲来と見せるために、
民家に火を放ち平氏の背後から奇襲をかけ平家3000騎に対し、わずか
150騎で勝利したと言われる、義経さんの奇襲攻撃だね。

reopa

この「屋島の戦い」で、源氏の中で随一の弓の名手である那須与一が、
船上の扇を矢で落としたという、あの有名な「扇の的当て」の伝説
生まれるんだ。

【家族構成】

父:源義朝(みなもとのよしとも) 母:常盤御前(ときわごぜん)
兄:源義平(みなもとのよしひら) 源朝長(みなもとのともなが)
  源頼朝(みなもとのよりとも)鎌倉幕府初代征夷大将軍 
  源義門(みなもとのよしかど) その他に兄4人 
妻:郷御前(さとごぜん) 妾:静御前(しづかごぜん)
子供:男児1 女児1 

【人物像】

 幼名は牛若丸(うしわかまる)と言い、1159年(平治元年)源義朝(みなもとのよしとも)と
絶世の美女と言われた常盤御前(ときわごぜん)の息子として誕生した平安時代の日本の武将で、
鎌倉幕府初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)の異母弟です。
剣術や戦術に優れていた義経は、後に「戦いの天才」と呼ばれるようになります。
兵法の極意が書かれているという中国の兵法書「六韜三略」(りんとうさんりゃく)を
読破し「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」など、少数の兵による奇襲作戦から天才的で史上屈指の
戦術家
として注目されました。
その後の源平合戦である「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)
では、平家を滅ぼした最大の功労者であったにもかかわらず、兄・源頼朝(みなもとのよりとも)
からの信頼を得ることができず対立し、最終的に幕府を追われ悲劇的な最期を遂げました。

中国の兵法書「六韜三略」は、京都一条堀川にすむ文武に優れた
陰陽師
であった鬼一法眼(きいちほうげん)さんが、所有していた
兵法書でしょ?

reopa

鬼一法眼さんに弟子入りを頼んだけど断られた義経さんは、鬼一さんの
娘に「六韜三略」を盗ませて読破したと伝えられているね。

【時代背景】

 源義経が生まれたのは、まさに源平の争いである「平治の乱」が起こった頃です。
この戦で、父の源義朝(みなもとのよしとも)が率いる源氏は、平家の棟梁であった
平清盛(たいらのきよもり)に敗れてしまい、義朝と兄の源朝長は討死します。
幼い義経も、このときに殺されるはずでしたが、母・常盤御前(ときわごぜん)が
清盛に見初められ密約することで命が助かります

この時、将来武士になって反旗を翻さないように寺へ出家させる条件もありました。
7歳から義経は、京都の「鞍馬寺」(くらまでら)に預けられ、仏教で太陽という意味の
遮那王」(しゃなおう)という名で呼ばれ、学問僧として勉学に励みました。

 義経は、15歳まで鞍馬寺で学問に打ち込んでいましたが、源氏の子孫んが途絶える事を
憐れんだ僧侶
が、義経に「平家は敵である」と伝えます。自らの出自の真実を知った義経は
平家打倒の野心を抱きます。夜ごと鞍馬寺の奥にある「僧正が谷」(そうじょうがたに)で
武芸に打ち込むようになり、そして16歳の時に義経は鞍馬山から姿を消します。
各地を巡っていた義経は、奥州と京都を行き来する豪商人の金売吉次(かねうりきちじ)と
出会い、陸奥の話を聞き奥州平泉に向かいます

義経さんは鞍馬寺の修業で、大天狗の「鞍馬天狗」に
稽古をして貰ったという伝説もあるね。

reopa

六韜三略」を熟読して兵法を覚えたと言われているけど、
鞍馬天狗との厳しい修行で兵法を学んだとも伝えられているんだ。

 そこで、奥州藤原氏の3代目当主の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)と出会います。
秀衡は奥州藤原氏の全盛期を築いた人物です。義経は秀衡のもとで武芸を学びます。
そんな中、1180年(治承4年)ついに、後白河法王(ごしらかわほうおう)の息子
以仁王(もちひとおう)が平家追討を発令します。
これを機に、兄・源頼朝が挙兵します。兄の挙兵を聞きつけた義経も出陣します。
そして義経は、兄・頼朝と感動的な対面を果たします。二人はついに「宿敵・平家滅亡
にむけて動き出したのです。

富士川の戦いで、平家を破った頼朝さんを義経さんが訪ねた時は、互いに
喜び涙を流した
と言われているのに、なぜ対立してしまうのかな?

 戦いの天才といわれた義経は「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」で、その才能をみせます。
そして「壇ノ浦の戦い」では水軍を編成し平氏と一騎討ち。平氏の船を操作する人を矢で
射ることで、舵取りを失った平氏の船は沈み勝利した義経は、ついに平家を滅亡させたのです。
義経は負け知らずの圧倒的な強さで、その名を天下に轟かせました。
平家を滅ぼした最大の功労者であるはずの義経ですが、頼朝から不信感を抱かれ追われる
立場になります

reopa

義経さんが、頼朝さんから不信感を抱かれた理由と言われているのは、
①頼朝さんの家来を自分の家来の様に扱った
②義経さんの戦い方が「奇襲作戦」ばかりだった
③後白河法皇から勝手に官位を貰ってしまった

などがあるようだけど、頼朝さんが義経さんを怖れたのかもね。

 頼朝から不信感を抱かれた理由は様々あると言われていますが、頼朝の承諾なく朝廷の官職に
就くことは許されない
、という約束事を破った事などが影響している様です。
義経は戦の功績を評価され、後白河法皇から冠位をもらってしまいます
加えて頼朝の家臣である梶原景時(かじわらかげとき)が「最後の敵は義経なり」と
頼朝をそそのかしました。幕府をから追われる事になった義経は、最後に昔お世話になった
陸奥の藤原秀衡のもとに身を寄せます。 義経の良き理解者で協力者だった秀衡も病に倒れる際に、
息子達に「何があっても義経だけは守るように」と言い遺しますが、息子の藤原泰衡
(ふじわらのやすひら)によって秀衡の願いは破られます

 頼朝は巧みに泰衡を動かし、義経討伐に向かわせます。
義経は戦力的に敵わない事を悟り、思い出の平泉の「持仏堂」に入り、
妻と娘を刺し自らも切腹し、31歳の若さで最期を遂げることになりました。 

裏切者と言われている泰衡さんも、実は父である秀衡さんの
遺言を守ろうと頑張っていたんだよね。

reopa

頼朝さんの圧力に耐えられなくなり、義経さんを襲撃したようだね。
この時の頼朝さんの本当の目的は、奥州藤原氏の壊滅だったと言われて
いるんだけど、実際このあと頼朝さんに藤原氏は滅ぼされているんだ。

【名言】

 「勝つということは味方に勝つ事である。味方に勝つというのは我に勝つ事だ。
我に勝つというのは、気をもって体に勝つ事である


人よりも百倍臆病であるとすれば、百倍勇気を奮い立たせればいいではないか

【愛刀】

 「薄緑」(うすみどり)元々の名前は「膝丸」(ひざまる)→重要文化財(京都の大覚寺)
薄緑丸」(うすみどりまる)→箱根神社
どちらが源義経の愛刀「薄緑なのか、現在では確証がありません。

義経さんは、若くして亡くなったと伝えられているけど、
エピソードの書かれているように、生き延びていたらいいね。

【エピソード】

 牛若丸(義経)は「1,000本目の刀」を奪おうとする武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)
京の五条橋の上で出会います。乱暴で怪力無双な弁慶は、笛を吹きながら現れた牛若丸を
襲撃しますが、ものの見事に返り討ちに遭い降参した弁慶は、牛若丸の強さに惚れ込み家来と
なったのです。義経は、このとき18歳だったといわれています。

 奥州の平泉で自害したと言われる義経は、密かに蝦夷に逃れてアイヌの人々から
神である「オキクルミ」として崇められていたと言われています。
さらにはモンゴルまで逃げ延び、その地でチンギス・ハンになったという伝説も存在します。
この「義経=チンギス・ハン」説は、有名なシーボルト新井白石が提唱しています。

【家紋】

源家の家紋「笹竜胆

 源氏の代表紋として知られている紋が「笹竜胆(ささりんどう)」です。
竜胆の花が3つと葉が5つ描かれている紋で、葉の形が「」に似ていることから、
この名前が付いた
と言われています。
源氏の代表的な紋と言われていますが、実際は源氏での使用は少なく、多くは
公家などで使用されていた様です。
また、義経や頼朝が家紋として使用した確かな証拠もありません
鎌倉幕府を開いた頼朝にちなんで、現在は「鎌倉市の市章」として使われています。

2023年5月23日徳島県,銅像

Posted by reopa