中江藤樹(なかえとうじゅ)【1608年~1648年 享年41歳】

2023年5月25日愛媛県,銅像江戸時代,中江藤樹,大洲城

reopa

こんにちは、reopaです。case38は「中江藤樹」さんです。
江戸時代初期の儒学者であり日本陽明学」の始祖と言われる
中江藤樹さんとは、どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:愛媛県 大洲市 大洲 大洲城】
 大洲は藤樹が10歳から27歳まで過ごした勉学の地です。
尊敬する藤樹の心をいつまでも継承しようと、大洲の人々は「藤樹ゆかりの地」として、
この城山に銅像を建立しました。

大洲城は大洲町のシンボルであり「伊予国第一の清流」と言われる肱川を見渡せる
地蔵ヶ嶽(じぞうがたけ)と呼ばれる丘の上に建っています。
現在の大洲城は20004年に復元されたものですが、一般的な復元天守である鉄筋
コンクリート造りではなく、珍しい木造の天守です。

また、県立大洲高校の校内には「藤樹の住居跡」があり、県史跡となっています。

大洲城は江戸時代初期に、あの「築城名人」で有名な
藤堂高虎さんに修築されたいるんだね。

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藤堂高虎さんは家康さんの側近だった武将だね。
case24」で紹介しているから是非、見て欲しい。

【家族構成】

父:中江吉次(なかえきちじ) 母:不明(ふめい)
兄弟:不明(ふめい)  
妻:(ひさ) 後妻:布里(ふり)
息子:中江宜伯(なかえぎはく) 

【人物像】

 幼名は藤太郎(とうたろう)と言い、1608年(慶長13年)中江吉次の長男として
生まれました。江戸時代初期の儒学者で、わが国における陽明学の開祖であり、
数多くの徳行にや感化により、没後に「近江聖人」と称えられる人物です。
9歳で祖父の養子となり武士として育てられますが、独学で「四書大全」を読み
朱子学」に傾倒しますが、後に「陽明学」を学んだことにより、朱子学の
理念的傾向ではなく陽明学の実践的側面を重んじる
事になります。
父の死後、母の面倒を見るために故郷にもどり、私塾を開き儒学を庶民の道徳として
広め、多くの地元の庶民に支持されます。庭に藤の老木があり「藤樹」と呼ばれる由縁です。

藤樹さんは「藤樹書院」の門下生に「」とは永遠の道理であると
説き人間としての大切な道を人々と共に学んだ立派な人なんだね。

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」を親子間の個人的な徳としてだけでなく、儒学を庶民の道徳として
広め多くの支持をうけ
、没後「近江聖人」と呼ばれるようになったんだ。

【時代背景】

 藤樹は、9歳の時に米子藩主加藤家の150石取りの武士である祖父・中江吉長」
養子となり
、親元を離れ米子に向かう事になりますが、米子藩主加藤貞泰
伊予大洲藩(現在の愛媛県)に国替えとなり、藤樹も祖父母とともに移住します。
15歳の時に、祖父が亡くなり家督100石を相続し加藤家に仕える事になります。
1624(寛永元年)京都から来た僧に「論語」を学んだことをきっかけに「四書大全
(ししょたいぜん)を熟読し「朱子学」に傾倒します

 父の死後、郷里の近江で一人で暮らす母親に大洲での同居を進めますが、断れます。
藤樹は学者として藩内の武士たちに孝を尽くせ」と教えながら、自分が近江に母親を
一人残していることに悩み
、思い悩んだ藤樹は1634年(寛永11年)27歳の時に、母への
孝行と健康上の理由により、藩に辞職願いを提出しますが、許可が出ませんでした。
そのため脱藩し、郷里に戻り母に仕えつつ、私塾を開きます。これが「藤樹書院」です。
自ら医学を学び、村の学問の先生兼医者という存在になっていきます。

藤樹さんの心の根底にあるのは、藤樹さんを立派な人にしたいと思った
母親のある意味、厳しい教えだったんだよね。

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藤樹さんが母親を心配して故郷に戻った時も「男子は一度目標をもって
家を出たら、めったな事で戻ってきてはなりません」と言われて追い返され
たりしたから、早く立派な人物になり孝行したくて一生懸命に勉強したんだよ。

 塾では「儒学」を教えましたが、特に「王陽明全集」に接して以降、藤樹は
大洲時代に自分に課した形式主義的な「朱子学」ではなく、人間には本来良知が具わると説く
「陽明学」を重んじ独自の思想を形成していきます。江戸時代の「士農工商」という階級社会に
あって、藤樹の教えは身分の上下を超えた平等思想にあったのです。そのため、藤樹の教えは
武士だけではなく「農工商」の人達からも広く支持される事になりました。

 藤樹の私塾に入門して師事した人物には、備前池田家に仕えた陽明学者の熊沢蕃山
(くまざわばんざん)がいます。また、藤樹は儒学だけでなく望む者には医学も教え
その教え子の中に大野了佐(おおのりょうさ)がいます。
藤樹は30歳で、久と結婚し2人の息子をもうけましたが、藤樹39歳の時に妻・久が亡くなり、
後妻との間に息子が生まれますが、誕生の50日後、藤樹は41歳で喘息のために亡くなりました。

藤樹さんは、心に残る「名言」を沢山、残しているけど
その一部を紹介します。

【名言】

このたから(真理)は天にありては天の道となり、地にありては地の道となり、
人にありては人の道となるものなり


人生の目的は利得ではない。正直である、正義である。

父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し

それ学問は心の汚れを清め、身の行ないを良くするを以て本実とす

家をおこすも子孫なり、家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしへずして、
子孫の繁昌をもとむるは、あしなくて行くことをねがふにひとし

reopa

藤樹さんの有名な「教え」を紹介します。
なるほどと感じる事が出来る教えだと思います。

 致良知
人は誰でも生まれながらに美しい心「良知」を持っている。
人が人らしく生きる為に「良知」を大切にし、その心を汚さずに、
鏡のように綺麗にしておく
事が大切である。

五事を正す
貌(ぼう)-顔かたち
 和やかな顔つきで人と接し
言(げん)-言葉づかい
 思いやりのある言葉で話しかけ
視(し)-まなざし
 澄んだ目でものごとを見つめ
聴(ちょう)-よく聞く
 耳を傾けて人の話を聴き
思(し)-思いやり
 真心を込めて相手のことを思う

【エピソード】

 ある武士が国元に帰る途中の宿に着いた時、藩の公金200両を雇った馬の鞍に結んだまま
忘れている事に気付きました。馬と馬子は既に遠くに去り、死を以て君主にお詫びをする以外
ないと思っていたところ、金入れを持った馬子が宿に現れました。
武士は馬子への感謝として15両を差し出しましたが、馬子は「当然のことをしたまでで、
お受けするわけにはいきません」と答え、受け取りませんでした。
何としても謝礼をしたい武士に対し、やむなく馬子は4里の道を歩いてきた草鞋(わらじ)代
としてわずかに200文を受け取りました。馬子の行為に心を打たれた武士は
そなたは何によってそのように無欲で正直な人間になったのか」と尋ねたところ、馬子は
「近くの小川村に中江藤樹先生という方がおられて、親孝行をすること、人の物を盗んだり、
傷つけてはいけないこと、困っている人を助けること
を話されます。私はそれを思い出したに
すぎません」と答えました。

藤樹さんの教えは、色々な人たちの中に生きて
いたのが分かる逸話だね。

reopa

下のエピソードでも分かるように、藤樹さん自身も教えを
実践したからこそ「近江聖人」と呼ばれることになったんだね。

 藤樹は、希望者に医学も教えましたが、そこに入門を希望した大野了佐という弟子がいました、
了佐は、友人の息子で知的障害(精神薄弱)に近かったと言われています。
了佐は藤樹の塾を訪れ「医者になりたいので、医書の読み方を教えてほしい」と頼み込みます。
医学書を読ませますが、冒頭の数句を教えるの半日以上かかり、更に食事を済ませて
復習させてみると、全部忘れてしまっている有様でした。
毎日、真面目に通う了佐を見捨てる事が出来ない藤樹は、了佐のために解りやすい本を
新たに書き、嚙み砕いて丁寧に教え込むことで、ついには了佐を一人前の医者に育て上げました。

2023年5月25日愛媛県,銅像

Posted by reopa