長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)【1539年~1599年 享年61歳】
こんにちは、reopaです。case39は「長宗我部元親」さんです。
土佐の小領土出身ながら、土佐の統一後に四国を一代で統一した
長宗我部元親さんは、どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:高知県 高知市 長浜 若宮八幡宮】
長宗我部元親の初陣は22歳の時で、宿敵本山氏の家来が守っていた長浜城の攻略です。
初陣前夜に元親は、若宮八幡宮の竹林に陣を張り、心静かに戦勝を祈願し戦いに挑み
瞬く間に敵を蹴散らし、宿敵本山氏の長浜城を攻め落としました。
それ以来、元親はここを戦へ向かう際の戦勝祈願する神社と定めました。
若宮八幡宮の本殿は「出蜻蛉(でとんぼ)」式建築という独自のスタイルで造られています。
蜻蛉が飛び立つ姿をしていて、これは元親が定めたものと伝えられています。
蜻蛉は前にしか進まないことから不退転の「勝ち虫」と呼ばれ、縁起がいいと好まれました。
元親の初陣の像は、社へ向かう参道が延びる「鎮守の森公園」に建立されています。
出陣する前に「出蜻蛉式」神社に行き戦勝祈願し、
戦の勝利を報告に「入蜻蛉式」神社に行く習わしだね。
元親さんは、出陣前に「出蜻蛉式」の「若宮八幡宮」で戦勝祈願し、
凱旋した時は対となる「入蜻蛉式」の「土佐神社」神社に報告したと
言われているね。
【家族構成】
【人物像】
幼名は弥三郎(やさぶろう)と言い、1539年(天文8年)長宗我部国親の嫡男として
誕生した、戦国時代から安土桃山時代にかけての土佐国の戦国大名でり長宗我部氏
第21代当主です。幼少期の元親は、色白でおとなしい子だったので皮肉交じりに
「姫若子」(ひめわこ)と呼ばれており、物静かで本を読んでばかりいたので、
武将としては使い物にならないと思われていました。
しかし初陣の「長浜の戦い」で、獅子奮迅の活躍をし周りの評価は一転し
「鬼若子」(おにわこ)と称されるようになります。
後に、土佐国の豪族だった長宗我部氏を戦国大名にまでにした功績と四国をほぼ制覇した
ことから「土佐の出来人」と呼ばれる様になりました。
元親さんは、長身で色白だったことに加えて、大人しく人に会っても挨拶も
返事もせずにぼんやりしていたから、父である国親さんは、不安だったようだね。
不安だったのは、国親さんだけではなく家臣たちも不安だったんだ。
戦の直前になってから家臣に「槍はどう使うの?」と尋ねたりしてる
からね。でも「長浜の戦い」で、元親さんは2つの首級を手にし、更に
周りの制止を振り切り、敵方の城を奪ってしまったと言うから、家臣も
本当にビックリしたんだ。
【時代背景】
元親が誕生したのは、長宗我部氏を含む、戦国時代の土佐で勢力を伸ばした「土佐七雄」
(とさしちゆう)と呼ばれる有力豪族がひしめく時代です。 元親の祖父である長宗我部兼序
(ちょうそかべかねつぐ)は、本山氏と吉良氏により城を攻められ自害に追い込まれています。
衰退した長曾我部氏の再興を進めたのが、父である長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)です。
1560年(永禄3年)の「長浜の戦い」において、元親は当時としては遅い22歳での初陣を果たし、
当時土佐で最大の勢力を誇っていた本山氏に勝利します。
土佐七雄(とさしちゆう)とは「長宗我部氏・津野氏・本山氏・安芸氏・
大平氏・吉良氏・香宗我部氏」と呼ばれる土佐の有力豪族を指していて、
その他に一条氏も存在していたんだね。
長浜の戦いののち、父の国親が急死したため元親が家督を継ぎ第21代当主となります。
元親は土佐統一を目指し「一領具足(いちりょうぐそく)」を用いて戦力の拡大を
図ります。まずは、長年土佐を巡り争っていた本山氏を、1568年(永禄11年)に
降伏させ土佐中部を平定し、1569年(永禄12年)「八流れの戦い」(やながれのたたかい)
と言われるこの戦いで、土佐東部を支配していた「安芸国虎(あきくにとら)」を自害に
追い込み勝利し土佐頭部を平定します。さらに1575年(天正3年)土佐西部を支配していた
一条兼定(いちじょうかねさだ)を「四万十川の戦い」で撃破し土佐統一を果たしました。
「一領具足」とは、普段は田畑を耕し、農民として生活をしているけど、
有事の際に領主から招集を求められると「一領(ひとそろい)の具足
(武器・鎧)」を携えて直ちに召集に応じる人たちのことなんだ。
「本能寺の変」の一つの説として、元親さんが影響を与えたと言う
「四国説」って何なの?
簡単に言うと、元親さんと光秀さんの関係が、影響したのでは?
という説なんだけど、長くなるからエピソードで紹介するね。
豊臣秀吉さんは「case27」で紹介しています。
豊臣家臣となった元親は、1586年(天正14年)秀吉の九州征伐に父子で従軍しますが、
嫡男・長宗我部信親(ちょうそかべのぶちか)が討死してしまいました。
この戦で、大切な跡継ぎの長男・信親を亡くしてから、元親は人が変わったといわれています。
信親の死後、元親は次男・香川親和(かがわちかかず)や3男・津野親忠(つのちかただ)を
差し置き4男・長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)に家督を相続させます、
この出来事には、家臣や一族の中に反対する者もいましたが、元親は粛清するなどの非道な
行ないが目立つようになりました。その様な中でも元親は、1590年の「小田原征伐」には水軍を
率いて参戦し、さらに秀吉の「朝鮮出兵」(文禄・慶長の役)にも従軍しましたが、
長男の死で人が変わってしまった元親は、家中を混乱させたまま、1599年(慶長4年)に
伏見邸にて61歳で死去しその後の一族は滅亡の道を歩みます。
嫡男の信親さんは、武勇に優れるだけでなく家臣や領民から慕われ、
戦死した時は、敵味方問わずに死を惜しんだと言われる青年だったんだね。
元親さんの自慢の息子で、その死が元親さんの性格を大きく変えて
しまったんだ。それまでの元親さんは「家臣の意見をよく聞き入れ、
器の大きな信頼できる君主」とい評判だったのに、信親さんの死後は
「家臣の意見には耳を貸さなくなり、意見に反対する者を粛清するなど
非道な行いが目に付くようになった」と言われているね。
エピソードの内容をみても、元親さんの優しさや他人に対する
思いやりを感じる話が多いよね。信親さんの死が、どれほど大きく
元親さんを落胆させたか、わかる気がするね。
【名言】
「一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず」
(一つの道を究めることこそが肝要、多くの道を究めようとする者は、結局なにも究めることは
出来ない)
【愛刀】
「荒切」(あらぎり)→所在は不明
長宗我部氏の家老である福留親政が、長宗我部元親の父親の国親に献上したとされる刀
【エピソード】
戦では、敵国に侵攻する前に「狩り働き」というものでありました。
これは、敵領土の稲を刈り取ったり略奪したりすることで、敵国の人々の心にダメージを
与えるものでした。ある戦において、元親は「狩り働き」を命じると共に、半分は残すように
命じました。家臣の中から反対意見が出ましたが、これに対し、元親は「確かに敵領ではあるが、
これは農民が作ったものである。その努力を全て無くすわけいはいかない」と答えました。
律儀で情け深いと言われる元親の優しさが伝わる逸話です。
天下統一を果たした秀吉が、舟遊びを行った際に参加した大名たちに饅頭を用意し
配りました。大名たちは、美味そうに饅頭を食べましたが、元親は饅頭を少しかじり、
そのまま紙に包んだといいます。それを見ていた秀吉は「その饅頭が気に入らぬか?」と
元親に聞きましたが「秀吉様に頂いた貴重な饅頭を、私一人で食べるのはもったい無き事。
持ち帰って家臣達と分け合って食べます」と、元親は答えました。
これに喜んだ秀吉は、用意していた饅頭をすべて元親に持たせたと言います。
明智光秀が織田信長を討った「本能寺の変」には、様々な逸話がありますが、
その中の一つに「四国説」というものがあります。「織田・長宗我部同盟」の橋渡し役が
光秀です。四国統一の際には、領土は長宗我部氏に与えると言う内容を信長は一方的に
反故したうえ、逆らった元親さえも討伐する可能性があり、光秀は面目を潰された形に
なったのです。加えて四国担当を光秀から秀吉に交代させた信長への不信感が膨らみ
「本能寺の変」が起こったと言う説が「四国説」です。
【家紋】
長宗我部氏の定紋として使われる家紋が「七つ片喰(ななつかたばみ)」です。
長宗我部氏の祖先と言われる「秦氏」が、土佐に領地を与えられた際に賜わった盃に
片喰の葉が浮かんでいたことから、片喰の葉を描いた家紋を使用したと伝えられています。
片喰は繁殖力が強い植物であることから、子孫繁栄を意味する家紋として武士の家系で
多く使用され「十大家紋」の一つとされています。
長宗我部氏の家紋の「七つ片喰」は、丸の中心にある一組の片喰の葉を六組の葉の一部で
取り囲む、他に類似する家紋がないため長宗我部氏の「独占紋」と考えられています。
また、元親が「土佐七郡」を平定したのち「七つ片喰」を用いたと言う説もあります。
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