親鸞(しんらん)【1173年~1262年 享年90歳】
こんにちは、reopaです。case15は「親鸞」さんです。
「浄土真宗の宗祖」で知られる親鸞さんは、どんな
人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
大国主命さんは「case32」で紹介しています。
【家族構成】
親鸞さんの奥さんも謎が多いけど、子供も3男3女いたという説もあるね。
それと恵信尼さんは、親鸞さんの布教活動に同行したみたいだね。
親鸞さん自体も、記述されたいる書物が少なく不明確な面が多いんだよ。
師匠は、浄土宗の開祖といわれる「南無阿弥陀仏」を広めた法然さんです。
【人物像】
師匠の法然さんの「他力本願」と親鸞さんの「絶対他力」の違いが、よく
わからないけど、阿弥陀様の浄土に行ける意味では、変わらないのかな?
その違いは一番最後の「エピソード」に書いたから見て欲しい。
さて、親鸞さんの事をもう少し見ていこう。
【時代背景】
親鸞に関する現存する資料は大変少ない様です。幼くして両親を亡くした親鸞は、
わずか9歳の時に「比叡山延暦寺」で、親戚筋にあたる天台宗の僧侶である慈円(じえん)の
もとで出家しました。その後、比叡山で20年間の修行を行いますが、悟りを得る事が
出来ずに比叡山を下ります。比叡山の修業を止めた原因として外出した時に出会った
女性が影響したとの説があります。その理由は、比叡山を出る前に「心を鎮めようと
するほど乱れてしまってもうダメだ」と書き残したといわれているからです。
悟りを得られず比叡山を去るのは、僧侶の選択としてわかる感じだけど、
女性が影響して心が乱れるのは、何か親鸞さんらしい感じかな。
親鸞さんは、この時代の僧侶さんでは、あり得ない結婚もしているしね。
そして京都の「六角堂」に参籠したのをきっかけに、浄土宗の開祖・法然の弟子となります。
親鸞35歳のとき、法然と親鸞は朝廷との結びつきが強い、ある宗派から迫害され僧籍を
奪われて法然は土佐、親鸞は越後へと流罪になりました。この流罪で法然と親鸞は、再会
することなく法然は亡くなってしまいます。
4年後に流罪を放免された親鸞は、京都には戻らずに東国を中心に巡って布教に努めます。
この頃に有名な「教行信証」(きょうぎょうしんしょう)という浄土真宗の聖典を著しています。
親鸞が京都に戻ったのは、流罪から30年近くたった62歳のころでした。
その後、著作活動や弟子の指導に注力し、享年90歳で亡くなりました。
法然の浄土宗は修業を否定し、ひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えることで救われることから
他の宗教から敵対視されることも多かったようです。
僧侶といえば、厳しい修行をして仏様に救われる感じだけど、法然さんや
親鸞さんの教えは「南無阿弥陀仏」を唱えることで救われる感じだよね。
他宗教からすれば、考えが違いすぎて邪道だと思い敵対視したんだろうね。
親鸞は、浄土真宗の開祖として紹介しましたが、正確に言うと違います。
「浄土真宗」と名付けられたのは、親鸞が亡くなった後のことです。
親鸞には新しい宗派をつくる意志はなかったといわれています。
親鸞を浄土真宗の開祖にしたのは、ひ孫の覚如(かくにょ)と、いわれています。
浄土真宗の名の由来は「浄土を真の拠り所とする」ということです。
法然さんも親鸞さんも常識に縛られず、物事を自由な発想で捉えているんだ。
親鸞さんは流刑の時に「私は僧侶でもなく、俗人でもない」と言っていて、
親鸞さんは私欲がないとすら思えるんだ。
【名言】
「賢者の信は、内は賢にして外は愚なり。愚禿(ぐとく)が心は、内は愚にして外は賢なり。」
(賢者は内面は賢いが、外見は愚かに見える。愚者は内面は愚かだが、外見は賢く見える。)
この名言は、分かりやすいね。
時代は変わっても、同じことが言えるんだね。
法然さんの「浄土宗」と親鸞さんの「浄土真宗」の違いを
少しエピソード交えて紹介します。
【エピソード】
法然の浄土宗とは、ひたすら念仏を唱えれば極楽浄土にいけるという「専念念仏」の教えです。
この教えは「他力本願」とも言えますが、親鸞自身が「専修念仏」の停止を訴えていました。
親鸞の浄土真宗は、念仏を唱えようと思った時点で、すでに救われているという「絶対他力」の
教えをしていたからです。自分で極楽浄土に行こうとせず、阿弥陀如来にお任せするのが大切だ
という教えです。
親鸞の教えは、特に民衆の生活が圧迫され苦しむ人が増える戦乱期に広く受け入れられ、
戦国時代には、一向宗という武装集団まで生み出すことになりました。
浄土真宗から生まれた、一向宗は「死んでも極楽に往生して救われる」という思想のもと、
死を怖れないやっかいな勢力となって戦国武将を悩ませました。
一向とは「ひたすら」など意味があり、ひたすらに念仏を唱えることから
一向宗と呼ばれているんだよね。「一向一揆」も同じと言えるんだね。
親鸞は生涯で自らが浄土真宗の宗祖と名乗ったりせずに、法然から独立して開宗する
意思はなかったと言われています。歎異抄(たんにしょう・日本の仏教書)の有名な一節では
「法然に騙されて念仏を唱えて地獄に堕ちても私は後悔しない」と言っているほど、
法然を信頼し尊敬していたのです。
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