上杉謙信(うえすぎけんしん)【1530年~1578年 享年49歳】

2023年6月10日山形県,銅像上杉神社,上杉謙信,安土桃山時代,室町時代

reopa

こんにちは、reopaです。case6は「上杉謙信」さんです。
越後の龍」と呼ばれ、人気の高い武将の謙信さんは、
どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:山梨県 米沢市 丸の内 上杉神社・米沢城跡】
 謙信の居城は「春日山城」の為、遺骸は春日山城に安置されていました。
次代当主の景勝が「関ヶ原の戦い」の後に、米沢に移る事になりその際に謙信の
霊屋も「米沢城」に移される事になりました。
城下町米沢の基礎を築いたのが、米沢藩初代藩主の景勝の家老だった知将の
直江兼続」です。その200年ほど前の米沢は伊達家の支配下にあり、あの
伊達政宗」が生まれ育ったのが米沢城です。

上杉神社」は、上杉謙信を祭神として米沢城本丸跡に建立されました。
上杉神社の敷地内に、伊達政宗生誕の地の石碑が残されています。

伊達政宗さんは「case1」で紹介しています。

【家族構成】

父:長尾為景(ながおためかげ)越後国守護代
母:青岩院(せいがくいん)虎御前の呼び名がある。長尾房景(ながおふさかげ)の娘。
兄:長尾晴景(ながおはるかげ) 長尾景康(ながおかげやす) 姉:仙桃院(仙洞院)
子供:上杉景虎(うえすぎかげとら)養子 上杉景勝(うえすぎかげかつ)養子

謙信さんも、上杉憲政さんの養子になったけど、謙信さん自身も
実子がいないため、子供は養子を貰ったから家系は複雑なんだよね。

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複雑な中で、謙信さんの後を継いだ、養子の景勝さんは、
武田信玄さんの娘の菊姫さんと結婚したんだ。
最大のライバル同士の子供が結婚するって歴史は不思議だね。

【人物像】

 幼名は虎千代(とらちよ)春日山城で、為景(ためかげ)の4男として生まれました。 
戦国最強とよばれた武田信玄(たけだしんげん)との川中島の合戦や、助けを求める
人には手を差し伸べ、私欲より義を重んじた面があり、高い人気を誇る戦国武将です。
生涯で約70もの合戦に参戦し、明確な敗戦はわずか2回と伝えられています。
戦に強かったことから「軍神」「越後の龍」などと呼ばれていました。

謙信さんは、義に厚い人物のイメージが強いけど、戦国最強の信玄さんと
軍神と謳われた謙信さんが、手を組んでいたらどんな歴史になったんだろうね。

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その二人が、同盟を組んでいたら、信長さん・秀吉さん・家康さんの
天下はなかった可能性はあるかもね。
ここからは、戦に明け暮れた謙信さんの活躍を見ていこう。

【時代背景】

 父の為景(ためかげ)隠居後、家督は兄の晴景(はるかげ)が継ぎ、虎千代は林泉寺に入門。
「天室光育」(てんしつこういく)という僧侶から、学問や武道を学びます。
1543年(天文12年)虎千代は元服して長尾景虎(ながおかげとら)と名乗り、
栃尾城に入城しました。
兄の晴景が病弱な事もあり、越後の豪族が謀反を起こし、1544年(天文13年)に
栃尾城を攻めてきます。 この戦いで15歳の景虎(かげとら)は初陣を飾りました。

幼名からして強そうな名前だよね。この時代の僧侶さんは、学問だけでなく
武道も教えているから僧侶さん自体も強かったのかな?

 以降も数々の戦に参戦し戦歴を重ね、1550年(天文19年)に室町幕府13代将軍の
足利義輝(あしかがよしてる)の後ろ盾で越後国主の地位を確立し、長く続いた内乱を治め
22歳で越後統一を果たし山内上杉家16代当主となりました。

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学問も武道も、幼少期に教えを乞うた僧侶さんの影響は大きいよね。
有能な僧侶さんに、教育されることが大切だったんだろうね。

 その後、北条氏康(ほうじょううじやす)に攻め入られて越後国に逃亡してきた
「上杉憲正」(うえすぎのりまさ)を保護し、氏康(うじやす)と敵対関係となり、
続いて武田信玄に領土を追われた「小笠原長時」(おがさわらながとき)を保護し、
武田家と敵対関係となります。
この敵対関係が、後に有名な12年も続いた「川中島の戦い」へと繋がりました。

謙信さんは、自分の事より困った人を助ける事で
余計な戦に巻き込まれている感じがするね。

 様々な戦をしながら景虎(かげとら)は改名を何度か行っていますが、
1570年(元亀元年)に出家し、上杉謙信(うえすぎけんしん)と名乗るようになりました。
その後も、戦を重ねる中で謙信(けんしん)は、織田信長に滅ぼされた室町幕府再興の
ために、京へ上洛することを決意します。
1576年(天正5年)「手取川の戦い」で、織田家の柴田勝家(しばたかついえ)を撃破しますが、
次の遠征への準備をしている途中、城内で倒れて49歳の時に急死します。
死因は脳溢血などの病気とされています。

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勝家さんも有名な武将だけど、謙信さんは戦で勝っているんだよ。
49歳の若さで亡くなったけど、長生きした時の歴史も興味をひくね。
ここからは、謙信さんの名言を見てみよう。

【名言】

人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。
軽率なことは言ってはならぬ。

(人の上に立つ者は、よく考えて発言をするべきだ。迂闊なことを言ってはいけない)

現代の偉い人たちに、知って欲しい名言だね。

運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり
(運に任せないで、自分自身で道を切り拓け)
この言葉は、謙信の居城である春日山城の壁に書かれた「春日城壁書」の一節です。
言葉の意味としては、武士としての心得を示すものです。

【愛刀】

「姫鶴一文字」(ひめづるいちもんじ)重要文化財 米沢市上杉博物館に保管されています。

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謙信さんらしいエピソードを紹介します。

【エピソード】

 「敵に塩を送る」という言葉を聞いたことがある人は多いでしょうが、これには
敵の弱みにつけこまず、逆に苦境から救う」という意味があります。
武田信玄は同盟国である今川家から塩を購入していましたが、同盟関係を破ったため
塩が購入できなくなり、甲斐国の人々は食料の保存ができなくなるなどの苦境に陥ります。
その窮状を聞いた謙信が、敵国である甲斐国へ塩を送るように命じたという逸話です。

 この時代は、占いや縁起は大切なものとされていましたが、謙信は武神
「毘沙門天」(びしゃもんてん)を信奉するも、占いなどには頼らない人物だったようです。
上杉謙信の居城であった春日山城跡は国の指定史跡で、日本百名城のひとつです。

【家紋】

上杉謙信の家紋「竹に雀」

 謙信は、上杉の家督を継いだ後に上杉氏に伝わる家紋である「上杉笹」とも呼ばれる
竹に雀」を使用しています。(長尾姓時代の謙信は「九曜巴」を用いていたとされる)
上杉家の祖先は「藤原氏」であり、そのうち藤原北家の公家の一族を始祖としています。
その一族が用いていた紋が「竹に雀」であり、上杉氏はデザインに変更を加えつつも
その伝統を受け継いだといわれています。
 上杉氏はと縁戚関係にある仙台伊達氏もデザインは異なりますが「仙台笹」と呼ばれる
「竹に雀」の紋が、伊達氏の定紋として使われています。竹に雀の家紋には、常緑の竹に
群れを成す雀ということで、子孫繁栄や一族の栄華を願うという意味が、込められています。

2023年6月10日山形県,銅像

Posted by reopa