上杉謙信(うえすぎけんしん)【1530年~1578年 享年49歳】
こんにちは、reopaです。case6は「上杉謙信」さんです。
「越後の龍」と呼ばれ、人気の高い武将の謙信さんは、
どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
伊達政宗さんは「case1」で紹介しています。
【家族構成】
謙信さんも、上杉憲政さんの養子になったけど、謙信さん自身も
実子がいないため、子供は養子を貰ったから家系は複雑なんだよね。
複雑な中で、謙信さんの後を継いだ、養子の景勝さんは、
武田信玄さんの娘の菊姫さんと結婚したんだ。
最大のライバル同士の子供が結婚するって歴史は不思議だね。
【人物像】
謙信さんは、義に厚い人物のイメージが強いけど、戦国最強の信玄さんと
軍神と謳われた謙信さんが、手を組んでいたらどんな歴史になったんだろうね。
その二人が、同盟を組んでいたら、信長さん・秀吉さん・家康さんの
天下はなかった可能性はあるかもね。
ここからは、戦に明け暮れた謙信さんの活躍を見ていこう。
【時代背景】
父の為景(ためかげ)隠居後、家督は兄の晴景(はるかげ)が継ぎ、虎千代は林泉寺に入門。
「天室光育」(てんしつこういく)という僧侶から、学問や武道を学びます。
1543年(天文12年)虎千代は元服して長尾景虎(ながおかげとら)と名乗り、
栃尾城に入城しました。
兄の晴景が病弱な事もあり、越後の豪族が謀反を起こし、1544年(天文13年)に
栃尾城を攻めてきます。 この戦いで15歳の景虎(かげとら)は初陣を飾りました。
幼名からして強そうな名前だよね。この時代の僧侶さんは、学問だけでなく
武道も教えているから僧侶さん自体も強かったのかな?
以降も数々の戦に参戦し戦歴を重ね、1550年(天文19年)に室町幕府13代将軍の
足利義輝(あしかがよしてる)の後ろ盾で越後国主の地位を確立し、長く続いた内乱を治め
22歳で越後統一を果たし山内上杉家16代当主となりました。
学問も武道も、幼少期に教えを乞うた僧侶さんの影響は大きいよね。
有能な僧侶さんに、教育されることが大切だったんだろうね。
その後、北条氏康(ほうじょううじやす)に攻め入られて越後国に逃亡してきた
「上杉憲正」(うえすぎのりまさ)を保護し、氏康(うじやす)と敵対関係となり、
続いて武田信玄に領土を追われた「小笠原長時」(おがさわらながとき)を保護し、
武田家と敵対関係となります。
この敵対関係が、後に有名な12年も続いた「川中島の戦い」へと繋がりました。
謙信さんは、自分の事より困った人を助ける事で
余計な戦に巻き込まれている感じがするね。
勝家さんも有名な武将だけど、謙信さんは戦で勝っているんだよ。
49歳の若さで亡くなったけど、長生きした時の歴史も興味をひくね。
ここからは、謙信さんの名言を見てみよう。
【名言】
『人の上に立つ対象となるべき人間の一言は、深き思慮をもってなすべきだ。
軽率なことは言ってはならぬ。』
(人の上に立つ者は、よく考えて発言をするべきだ。迂闊なことを言ってはいけない)
現代の偉い人たちに、知って欲しい名言だね。
『運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり』
(運に任せないで、自分自身で道を切り拓け)
この言葉は、謙信の居城である春日山城の壁に書かれた「春日城壁書」の一節です。
言葉の意味としては、武士としての心得を示すものです。
【愛刀】
「姫鶴一文字」(ひめづるいちもんじ)重要文化財 米沢市上杉博物館に保管されています。
謙信さんらしいエピソードを紹介します。
【エピソード】
「敵に塩を送る」という言葉を聞いたことがある人は多いでしょうが、これには
「敵の弱みにつけこまず、逆に苦境から救う」という意味があります。
武田信玄は同盟国である今川家から塩を購入していましたが、同盟関係を破ったため
塩が購入できなくなり、甲斐国の人々は食料の保存ができなくなるなどの苦境に陥ります。
その窮状を聞いた謙信が、敵国である甲斐国へ塩を送るように命じたという逸話です。
この時代は、占いや縁起は大切なものとされていましたが、謙信は武神
「毘沙門天」(びしゃもんてん)を信奉するも、占いなどには頼らない人物だったようです。
上杉謙信の居城であった春日山城跡は国の指定史跡で、日本百名城のひとつです。
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