武田勝頼(たけだかつより)【1546年~1582年 享年37歳】
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こんにちは、reopaです。case19は「武田勝頼」さんです。
武田家を滅亡させたことで「愚将」とも言われる勝頼さん
ですが、実はどんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【家族構成】
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信玄さんの嫡男である義信さんは「謀反」の疑いで自害させられて、
次男の信親さんは盲目で出家し、三男の信之さんは早世の為、4男の
勝頼さんが後継者になったんだね。
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嫡男の義信さんは、優れた武将だったと伝えられているんだ。
義信さんが、武田家を継いでいたら歴史も違った可能性はあるね。
突然、家督を継ぐ事になった勝頼さんの人物像を見ていこう。
【人物像】
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勝頼さんは、名将だったと思うよ。あの謙信さんに「勝頼は、
片手間であしらえるような軽い相手ではない」と言わせているし、
信長さんも「表裏を心得た恐るべき敵」と認めているからね。
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武田家を滅亡させた当主として、勝頼さんは愚将と言う人もいるけど、
実は有能な武将だったから、信長さんや謙信さんに加えて家康さんにも
警戒されていたことが、武田家滅亡の原因とも言われているんだよ。
【時代背景】
勝頼(かつより)が元服を迎えると、信玄(しんげん)から伊那の「高遠城」の城主に
任じられましたが、武田家の家臣の中には、敵武将(諏訪家の血を引く)の跡取りを
武田家当主にする事に、快く思っていない者もいました。なお、勝頼は兄の義信(よしのぶ)の
死より2年前に、同盟の証しとして信長(のぶなが)の養女を正室として迎え、嫡男の信勝
(のぶかつ)が誕生しました。信玄は、信勝の誕生を大変喜び、武田氏と信長の血縁にあたる、
信勝を跡継ぎとし勝頼を一時的な武田家当主として、信勝が元服する16歳までの後見を命じます。
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勝頼さんが、後継ぎと認められない理由は、母親が武田家の敵だった
諏訪家の出身のため、信玄さんは家臣の反発を怖れたんでしょ?
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勝頼さんの、母・諏訪御料人の父親は、信玄さんに切腹させられたんだ。
その為、信玄さんが諏訪御料人を側室にする事も家臣から反対が出たと
言うから、そのしがらみが、勝頼さんの将来にも影響したんだ。
1573年(元亀4年)信玄が病死すると、勝頼は家督を相続し武田家20代当主となりましたが、
同時に信玄派と勝頼派の対立が始まります。信玄の跡を継いで、当主となった勝頼でしたが、
圧倒的に信頼感が欠けていたことも、信玄派と勝頼派の対立を顕著にする要因でした。
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信玄さん自体が、勝頼さんを武田家の人間ではなく諏訪家の人間として
扱っていた様だね。カリスマ性がある信玄さんが、そんな態度なら家臣が
勝頼さんを信頼するのは難しい状況だよね。
天下統一に向け勢力を拡大していた、信長と徳川家康(とくがわいえやす)は、武田家と
同盟を組んでいた、浅井長政(あさいながまさ)を討ち、次に武田家を狙ていました。
一方、勝頼は勢力拡大を目指して、東美濃の織田領へ侵攻し「明知城」を落としました。
続いて、遠江国の徳川領へ侵攻し、信玄が落とせなかった「高天神城」を陥落させます。
さらに、天竜川を挟んで家康軍と対陣し「浜松城」を攻める勢いで武勇を重ねていきます。
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勝頼さんの嫡男の信勝さんが、元服するまでの一時的な当主だから、
一説には、武田家の旗や軍旗(風林火山)を持つことを許さないと
信玄さんが、遺言している話もあるんだ。
「長篠城」を目指し「設楽ヶ原」(したらがはら)に侵攻した勝頼は、織田軍と徳川軍の
連合軍と対峙し「長篠の戦い」が開戦となりました。武田軍は、長篠城を陥落寸前まで
攻めましが、信長率いる織田・徳川連合軍の援軍が加わり、攻撃の勢いを無くした武田軍は、
総崩れとなり勝頼は退却します。それまで武田軍は、信長と家康の前に強敵として立ちふさがって
いましたが、この一戦によって優れた武将を数多く失い、衰退の道をたどることになります。
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上杉家の養子の景虎さんは、北条夫人の兄なんだ。そのため北条夫人も
勝頼さんに、景虎さんの支援を頼んでいたのに景勝さんを支援したんだ。
この判断が、北条氏を敵にまわす事に繋がてしまうんだよ。
その後も、織田軍や徳川軍と戦い続けますが、家臣の裏切りや離反等があり、武田軍は
敗走することになり最後を迎える時には、500人程いた兵も41人だったと言われています。
勝頼は、嫡子の信勝と夫人や従者を集め自害に先立ち、信玄が定めた「成人」の年齢である
16歳になった信勝へ正式に武田家の家督を相続したとされています。
武田家の習わしとして、家宝の甲冑を身に着け、最後まで行動を共にした家臣の前で己が
世継ぎであると宣言をしました。儀式のあと、勝頼は家督を相続した信勝と妻の北条夫人と
共に自害します。400年続いた名門武田家はここに滅亡したのです。
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家臣からの信頼を得られずに、裏切りや離反により苦しい状況の中で、
北条氏も敵にまわしてしまい、完全なる四面楚歌の状況だったんだね。
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そんな中で、政略結婚で嫁いだはずの北条夫人だけは、勝頼さんを慕い
最後の最後まで勝頼さんに寄り添う話は、とても素敵な話なんだ。
【名言】
「おぼろなる月もほのかに 雲かすみ はれてゆくえの 西の山の端」
この言葉は勝頼が「辞世の句」(死を見据えてよまれる句)です。
(雲にかすんだ月がおぼろに見える。やがて霞は晴れて西方浄土に向かっていくようだ。)
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北条夫人の「辞世の句」も、紹介させてもらうよ。
「黒髪の 乱れたる世ぞ 果てしなき 思いに消ゆる 露の玉の緒」
(乱れ髪のような世の中に、色々思うことはあるけれど、
すべて露のように儚く消えゆくばかりです)
【愛刀】
甲斐武田氏に代々伝えられ、武田信玄が佩用していた太刀「甲斐国江」(かいくにごう)。
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過酷の一言に尽きる勝頼さんの人生、出生から諏訪一族の運命をも
背負い、武田家重臣らに見切りをつけられ裏切られた、そんな勝頼さんの
エピソードを紹介します。
【エピソード】
勝頼が家督を相続した当初は、信長も家康も勝頼のことを侮っていました。
しかし、東美濃への侵攻が始まると、一転して勝頼の武勇を高く評価するようになります。
勝頼軍は、東美濃に進軍し織田方の支城を、一度に18も攻め落とす勢いを見せました。
家康の遠江においても、信玄でさえ落とせなかった高天神城を攻め落としたのです。
勝頼の進撃が、目覚ましたかった頃、謙信が勝頼の討伐を、家康と信長へ要請しており
信長は謙信へ「越後から、勝頼軍を牽制してくれると非常に助かる」と伝えています。
「勝頼は信玄の遺言や、法をしっかり守っていて、信玄に勝るとも劣らぬ人物である」という
書状を送っており信長が、いかに強く勝頼を意識していたのか、非常によく分かる逸話です。
勝頼は、7人いた兄弟の中で唯一、武田氏の通字(とおりじ:その家系で代々用いられる文字)
である「信」を継承せずに、諏訪頼重(すわよりしげ)の跡目を継いで、諏訪氏の通字である
「頼」を名乗り、勝頼となったのです。
【家紋】
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勝頼が使用していた家紋は、信玄が使用して有名な「武田菱」です。
武田菱とは「菱紋種」の一つに分類され「四割菱」(よつわりびし)ともいいます。
菱形の文様は古代から世界中で見られ「正倉院御物」の「染織物」などにも見られます。
菱は繁殖力が強いことから「子孫繁栄・無病息災」を願っていろいろなものに使われている
紋様です。武田菱の由来は、武田氏の祖先である「源義光」が「前九年の役」に際して
住吉大社を参拝し、奉納されていた「楯無の鎧」を拝領しました。この楯無の鎧には
「菱紋」の文様が飾りとしてあしらわれており、その菱紋を武田菱として武田家の
家紋にしたと言われています。また、鎧には花を描いた「花菱」もあしらわれており
この花菱は、武田家の「控え紋」「裏紋」として、信玄も好んで使用したようです。
その優しさや柔らかさといったイメージから、女性が特に好んで用いた家紋だったとも
言われています。
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