藤原俊成(ふじわらのとしなり)【1114年~1204年 享年90歳】
こんにちは、reopaです。case23は「藤原俊成」さんです。
歌人であり「千載和歌集」の撰者として知られる俊成さんは、
どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:愛知県 蒲郡市 竹島町 竹島園地公園】
蒲郡市には「藤原俊成」ゆかりの地がいくつかあり、三河湾に面して温暖な気候の
この地を大変好んだと伝えられ、当時荒地だった蒲郡の開発を進め基礎を築きました。
蒲郡駅の北側、今の「小江神社」の西あたりに俊成の屋敷があったと伝えられています。
蒲郡の海岸の沖合にある「竹島」には「八百富神社」があり「祭神・市杵島姫命
(いちきしまひめのみこと)」は、俊成が三河国司のころ琵琶湖に浮かぶ竹生島から
勧請されたもので「日本七弁天」の一つとされ、緑豊かな竹島は「国指定の天然記念物」で
開運・安産・縁結びの神様として知られています。
八百富神社の境内にある「千歳神社」は、俊成を祭神とする神社で和歌の神、長寿延命の神
として、世間の人に崇められています。
蒲郡市では、国内の著名な歌人を選者としてお招きして「俊成短歌大会」を毎年開催し、
俊成を偲んでいます。
市杵島姫命はアマテラスとスサノオの誓約(うけい)にして生まれた
水の神とされいて「宗像三女神」の一人と言われているんだね。
この宗像三女神とは、多岐津姫命・多紀理姫命、そして市杵島姫命ですね。
市杵島姫命は「弁財天・弁天様」と同一視されていて七福神の1人と
なっているんだ。市杵島姫命を祀る神社は各地にあり、もっとも有名
なのは広島県の宮島にある世界遺産にもなっている、厳島神社です。
【家族構成】
父:藤原俊忠(ふじわらのとしただ) 母は藤原敦家の娘(ふじわらのあついえのむすめ)
兄:藤原忠成(ふじわらのただなり)
妻:美福門院加賀(びふくもんいんかが)
息子:長男 藤原成家(ふじわらのなりいえ) 次男 藤原定家(ふじわらのさだいえ)
【人物像】
俊成さんの弟子には、後鳥羽天皇を筆頭に有名な人が多いんだね。
話は変わるけど、崇徳上皇には恐ろしい妖怪になったという
「怨霊伝説」があるみたいだね。
崇徳天皇の怨霊は「平将門」「菅原道真」と共に「三大怨霊」と
呼ばれており、京都最恐の怨霊と称されているんだ。
【時代背景】
この時代は、源平の争いの時代で平家方の人物は謀反者扱いされていた
中で俊成さんと友情で結ばれていた平忠度(ただのり)という人が、
「自分の和歌を後世に残したい」想いを俊成さんが叶えた話があるよね。
忠度さんの想いを受けて俊成さんは「千載和歌集」の中に「詠み人知らず」
という形で和歌を載せたという、粋な計らいをした有名なエピソードだね。
晩年にかけても創作意欲はいっこうに衰えず、1199年(建久10年)「守覚法親王家五十首」
(しゅかくほっしんのうけごじゅっしゅ)や 1200年(正治2年)「正治二年初度百首」
(しょうどにねんしょどひゃくしゅ)など、多数の和歌作品を残しました。
また、息子の藤原定家ら新風歌人の指導にも当たり、1205年(元久2年)「新古今和歌集」
(しんこきんわかしゅう)や、中世和歌の表現形成に大きく影響を与えました。
俊成さんの沢山ある和歌の中から、代表作2つ紹介します。
【名言】
「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
(ああこの世、世俗を離れるべく思いつめて入り込んだ山の奥にも、
鹿が悲しげに鳴いているようだ)
「誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば」
(私が花橘の香りをかいで昔の人を思い出すのと同じように、
私が死んだあとにこのように私のことを誰かが思い出すのだろうか)
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