藤堂高虎(とうどうたかとら)【1556年~1630年 享年74歳】

2024年3月24日三重県,銅像藤堂高虎,津城跡,安土桃山時代,江戸時代,戦国時代

reopa

こんにちは、reopaです。case24は「藤堂高虎」さんです。
主君を次々に変えたため「風見鶏」「世渡り上手」と言われている
高虎さんは、どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:三重県 津市 丸之内 津城跡】 
 藤堂高虎は、徳川家康の側近として仕え「関ヶ原の戦い」および「大坂の陣」に
おいて、著しい戦功を挙げて家康の信頼を得て初代津藩主となります
以後、津藩は明治維新まで改易されることなく、260年間続きました

 高虎が入封した当時の津の町は「関ケ原の戦い」の傷痕が残っており荒廃していました。
高虎は、城を中心に武士を住まわせ、町人たちを呼び集めて城下町を進めて、伊勢街道を
城下市街を通るように変えました。後に伊勢は津でもつ津は伊勢でもつといわれるほどの
城下町・宿場町として大変なにぎわいをみせるほどに発展してゆきました。

 津城は、当初織田信長の弟・織田信包が、伊勢上野城主であったとき安濃津の地に
安濃津城として築城を開始し、信長の妹・お市とその娘・茶々の三人姉妹も
信包とともに安濃津城に移り本能寺の変が起った1582年(天正10年)まで、安濃津城で
暮らしていたという説もあります。

 現在の津城跡は、信包が築城した城郭を高虎が大改修したもので、明治維新後、建物は
すべて取り壊され、城郭も外堀のすべてと内掘の大半が埋め立てられ、本丸と西の丸の石垣と
郭が残り、内堀は北と西に当時の半分ほどの幅に狭められて残っています。

Gaṇeśa

高虎さんは「築城の名人」で、主君を次々に変え浪人から
出世して藩主まで登り詰めてたことでも有名な武将だね。

【家族構成】

父:藤堂虎高(とうどうとらたか) 母:藤堂忠高(とうどうただたか)の娘
兄:藤堂高則(とうどうたかのり) 
妻:久芳院(くほういん) 一色義直(いっしきよしなお)の娘
息子:長男 藤堂高次(とうどうたかつぐ) 次男:藤堂高重(とうどうたかしげ) 

reopa

高虎さんは、様々な戦で功績を挙げているけど、内政や外交にも
非凡な才能を持った武将
の一人なんだ。

【人物像】

 幼名は与吉(よきち)1556年(弘治2年)近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)で
没落土豪の藤堂虎高の次男として生まれました。高虎は、戦国時代から江戸時代初期に活躍し、
足軽から大名に大出世を果たした戦国武将です。高虎と言えば、加藤清正(かとうきよまさ)
黒田官兵衛(くろだかんべえ)と並ぶ築城の名人であり、主君を次々に変えたことで有名
です。高虎は、身長190cmの大男だったというのが定説で生涯、戦に身を置いたため身体中に
隙間なく傷があり、手足の指も何本かちぎれ爪のない指も数本あったと、高虎の遺体を清めた
者が驚いたという逸話があります。

Gaṇeśa

高虎さんは「武士たるもの、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」といい
次々に主君を変えたことで、高虎さんの行動に好意をもつ人は少ないようだね。

reopa

でも、それぞれの主君の下で全力で奉仕している事実があるから、
各主君から信用され評価されているのをみると、裏切り者ではないんだよ。

【時代背景】

 高虎は、足軽として15歳で主君の浅井長政(あさいながまさ)のもとで、初陣の
姉川の戦い」で武功を上げますが、1573年(天正元年)に浅井家が滅亡。
その後、流浪生活をしていた高虎が最初に腰を落ち着けて仕えた相手は、豊臣秀吉
異父弟・豊臣秀長(とよとみひでなが)です。秀長の元で高虎は、紀州や四国攻めの際に
戦功を挙げ、ついには1万石の城持大名に出世。高虎にとって自身を評価してくれる
秀長は運命的な主君であり、この出会いがなければ、その後の高虎の活躍はありませんでした。

Gaṇeśa

次々に主君を変えると言われている高虎さんだけど、秀長さんの死後、
後継者の豊臣秀保(とよとみひでやす)の後見時代も含め、20年以上
もの間仕え続けているんだよね。

reopa

秀保さんが17歳で亡くなると、高虎さんは出家して高野山に籠もって
しまうほど、秀長さんへの忠誠心が高かったといわれているからね。
その才を惜しんだのが、秀長さんの兄である秀吉さんなんだよ。

 高虎は、秀吉のもとでも武功を挙げて出世しますが、秀吉の死後または生前に徳川家康
接近しました。「関ヶ原の戦い」では、徳川方に付いて西軍諸将の東軍への寝返り工作を
行なうなど大活躍。勝者の徳川氏はさらに力を持ち、家康は武家の頭である征夷大将軍に
就任するきっかけとなります。そして天下は、豊臣から徳川へと移っていくのでした。高虎は、
豊臣方との最後の戦いである「大坂冬の陣・夏の陣でも徳川方に付きます。

Gaṇeśa

豊臣家に仕えていたのに「大坂冬の陣・夏の陣」で、徳川方に付き
豊臣家と敵対したために不忠義だとの見方があるんだね。

reopa

そこだよね、高虎さんの行動をみると、主君はあくまでも秀長さんや
秀保さんであり、豊臣家ではなかったんだね。高虎さんにとって大切
なのは「」だあり「」では
なかったんだね。

 幾度も主君を変えた高虎にとって最後の主君となったのが、徳川家康でした。
1616年(元和2年)家康の今際の際にも高虎は、外様の中でただひとり立ち会うことを
許されました。その際に家康が「死後もそなたに会いたいが、宗派が違うから難しいな」と
言うと、高虎は隣の部屋にいた天海僧正(てんかいそうじょう)のもとに行き改宗した
のです。そんな高虎に家康は「死後は天海と高虎と眠りたい」と言い遺します。
家康を奉る「日光東照宮」には、徳川家康藤堂高虎天海僧正の3人の像が奉られています。

Gaṇeśa

高虎さんは、関ヶ原の戦い大坂の陣で武功を挙げ、家康さんの力に
なったのは有名だけど、秀吉さん没後の石田三成さんとの確執等から、
家康さんを守っているんだね。

reopa

戦だけではなく、外交や内政の能力も高い高虎さんだから、
家康さんに最も信頼・評価された武将であったといわれているんだね。

 加藤清正・黒田官兵衛と共に「築城名人」として知られる高虎ですが、目指したのは
城下町まで想定した「治めるための城」といわれています。高虎は、自らも出陣する武将
なので、実戦から得た経験を活かした「守りやすい城・攻められにくい城」を基本として、
皆が不自由なく生活できる城下町を踏まえた城造りを理念としていたと言われています。
高虎が手掛けた城は沢山ありますが、有名なところでは「今治城」「二条城
大阪城」「江戸城」などです。高虎は、家康を奉った日光東照宮の建造にも携わています

Gaṇeśa

高虎さんが、手掛けたお城は「20以上」と言われているけど、
現存しているお城を見て回るのも、楽しそうだね。

【名言】

 「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。
これ本意となすべし。
」高虎が座右の銘にしていた言葉といわれています。
(一歩寝所を出れば、その日が自分の死ぬ日かもしれない。その覚悟があれば動じることはない。
そう思って生きろ)

reopa

仁義礼智信、一つでも欠ければ、諸々の道は成就しがたいは、嫡男の
高次さんに残した言葉なんだけど、他にも高虎さんは「高山(こうざん)
公御遺訓」という全文200カ条から成っている家訓も残しているんだ。

【愛刀】

備前国兼光」(びぜんこくかねみつ)→重要文化財(佐野美術館)

【エピソード】

 流浪していた時期に生活に困窮した高虎は、空腹のあまり三河餅を「無銭飲食し主人に
白状して謝りました。すると店の主人は「銭がないなら仕方がない」と、許してくれました。
その上で主人は、故郷で親孝行するようにと、お金を高虎に手渡したのです。後に大名になった
高虎は、参勤交代の折に店に立ち寄り「丁重にお礼」をしたといいます。
藤堂家の旗印は「白丸三つ」で描かれていますが、これは「白餅」を「城持ち」にかけ、
餅屋の恩を印にして「人の情けを忘れないように」という意味が込められているそうです。

 高虎が生きた戦国時代は、主君が死去した際に忠誠を示すために家臣が殉死することが
多くある時代でした。高虎が「私が死したあとに殉死するつもりでいる者はこの札に姓名を書き、
この箱へ投じよ」と命じると、多くの家臣が札を投じました。これを見て高虎は「これほど忠義に
厚い者達を失うのは惜しいので、殉死しないよう上意(じょうい:主君からの命令や指示)して
欲しい」と家康に頼んで、家臣達に殉死することを禁じたという逸話があります。

Gaṇeśa

主君を七人も変えていることから、色々と悪く言う人がいるけど
高虎さんは「正直者」で「人」を大切にする名将だったと思う。

【家紋】

藤堂高虎の家紋「藤堂

 高虎は「蔦紋」といわれる「藤堂蔦」を家紋として使用しています。「蔦」は植物としての
強い生命力があり地面を伝わって根付き「子孫繁栄」の紋として人気が高く、めでたい印という
こともあって「日本十大紋」のひとつとして多くの武将たちの家紋として使用されています。
高虎は、豊臣秀吉に仕えていたころに、豊臣家の家紋の「」を授かりましたが、主君と
一緒では恐れ多いということで「桐」に似た「蔦」に変えたという説もあります。

2024年3月24日三重県,銅像

Posted by reopa