琴陵宥常(ことおかひろつね)【1840年~1892年 享年52歳】
こんにちは、reopaです。case37は「琴陵宥常」さんです。
「金光院」の宮司であり「日本水難救済会」を創設した
琴陵宥常さんは、どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:香川県 仲多度郡 琴平町 金刀比羅宮】
金刀比羅宮(ことひらぐう)は、琴平町の象頭山に鎮座し「こんぴらさん」という
愛称で親しまれ、参道の長い石段が有名な「海の神様」を祀る神社です。
「書院」や「旭社」は、国の重要文化財で由緒ある建造物が点在し、宝物館には
美術品や文化財が陳列されており、宥常が購入したと言われる「日本洋画の開拓者」と
称される高橋由一の油絵27点が所蔵されています。
江戸時代には「お伊勢参り」と並び「こんぴら参り」が全国的に広まったと言われています。
こんぴらさんは「一生に一度はお参りしたい場所」として、庶民の憧れの場所となりました。
江戸時代は、庶民が旅をすることは禁じられていたけど、
社寺への参拝の旅は許されていた時代だね。
庶民が許されていた旅が、神仏の参拝旅だったから
「お伊勢参り」と「こんぴら参り」は、庶民の夢と
まで言われていたんだ。
【人物像】
宥常は「金光院(こうこういん)金毘羅大権現」の住職を務めたいました。
明治維新による大きな社会変化が押し寄せる中、果敢に挑んだ人物です。
「金毘羅大権現」が寺院ではなく神社として進める事が決定した際に「金刀比羅宮」に
改名し、自らの名前も宥常(ゆうじよう)は琴陵宥常に改名しました。
宥常は金刀比羅宮の宮司の職を希望していましたが、願いは叶わず社務職として宮司を助けながら
金刀比羅崇敬講社を立ち上げ「水難救済会」を設立するなどその後の発展の基礎を築きました。
金毘羅とは、インドのガンジス川にすむワニを
神格化した水神様の名前だという説があるんだね。
他にも「金毘羅大権現」は「薬師如来」を守る「薬師十二神将」の
仏さま「宮毘羅(くびら)大将」という説もあるんだよ。
【時代背景】
「金刀比羅宮」は、古くから「海の護り神」と呼ばれてきました。
宥常はた金刀比羅宮に仕える神職として海上安全をお祈りしていましたが、文明開化後に
船の往来が多くなりそれに伴い海難事故が多発していく状況を見て、海上遭難者を
救う策はないものかと考えていました。そんな時、明治19年10月イギリスの貨物船
「ノルマントン号」が紀州大島沖で座礁沈没する事件が発生しました。
この沈没でイギリス人乗組員は全員脱出して助かりましたが、同船に乗り合わせていた
日本人25人は船に取り残され全員が水死してしまいました。
この水難事故は幕末に締結した日本と諸外国との間で結ばれていた不平等条約がからみ、
大きな国際問題になりましたが、同船の船長に対する責任は事件の規模から見ると極めて
軽いものであり、日本国民の感情を大きく傷つけることになりました。この事故の経緯や
結果をみて、金刀比羅宮の宮司であった宥常は水難救済制度の必要性を痛感しました。
日本人が25人も亡くなったのに、船長の刑罰は禁固3か月だったようだね。
この判決はイギリスの裁判所が下したものだけど、当時の日本では
この事件を裁く裁判権がなかったんだ。
「神様のご加護は、人の力の限りを尽くしてこそ得られる」を信条としていた宥常は
上京し水難救済会の設立に向け行動に移します。その行動力で様々な人の協力を得て物事が
進んでいきます。当時の総理大臣である「黒田清隆」に会い、水難救済会設立に大きな
賛同を得ながら、海軍の上層部と設立に向けての話し合いを重ね、ついに金刀比羅宮において
「大日本帝国水難救済会」の開会式を行い、現在の「日本水難救済会」の基礎を築きました。
宥常は1892年(明治25)に琴平で逝去しましたが、海の安全と人を尊ぶ精神は変わることなく
今も脈々と受け継がれています。
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