梶原景季(かじわらかげすえ)【1162年~1200年 享年39歳】
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こんにちは、reopaです。case21は「梶原景季」さんです。
矢を入れる「箙に梅の枝」をさして戦った事で知られる
景季さんは、どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:岐阜県 群上市 明宝大谷 磨墨の里公園】
「宇治川の先陣争い」に梶原景季が乗った名馬「磨墨」は、古来より明宝気良の産と
語り伝えられています。郡上市明宝大谷の道の駅明宝に、この頁で紹介した「名馬磨墨之像」が
あります。磨墨は、景季の馬として幾多の戦いに活躍し最後は尾州羽黒(現在の犬山市)で
没したと言われており、その英霊は梶原家の「菩提寺興禅寺」に手厚く祀られています。
磨墨のお墓とされる「磨墨塚」(するすみづか)は、日本各地に存在します。
【家族構成】
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景季さんには、弟が沢山いたんだけど、みんな一連の政争で
若くして亡くなっているんだよね。
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父親の景時さんの情報は多いけど、景季さんの情報が少いんだ。
纏めてみたから見ていこう。
【人物像】
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【時代背景】
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先人争いで高綱さんが乗った名馬「生食」(いけずき)は、景季さんが
頼朝さんに欲しいと、お願いした馬なんだよね。
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生食は「池月」とも書くんだけど、磨墨との話はエピソードで
少し書こうと思っているから、楽しみに待ってて欲しい。
続く平氏追討戦である「一ノ谷の戦い」では、弟の「景高」が一騎駆けして敵中に突入し
これを救うために、父・景時と共に景季も敵陣へ攻め入り敵陣を打ち破り後退しますが、
景季が深入りしすぎて戻らないため、心配した景時が再び敵陣に突入して奮戦します。
これが「梶原の二度駆け」と呼ばれています。この戦いで景季は「庄高家」(しょうたかいえ)と
共に平重衡を捕える手柄を立てています。
一ノ谷の戦いの後は、父の景時と共に義経軍に属し平家滅亡に繋がる「屋久島の戦い」
「壇ノ浦の戦い」に参戦します。この戦いで活躍した義経を筆頭に24名が、後白河法皇から
官位を与えられますが、許可なく官位を受けたことに激怒した頼朝は、任官した24名の
鎌倉帰還を禁じます。後に景季らは鎌倉への帰還を許されますが、義経は許される事は
ありませんでした。
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激怒した頼朝さんは、24人を罵ったと伝えられているんだけど、
景季さんの弟の景高さんは「人相が悪く、痴れ者と思っていたが、
任官は誠に見苦しい」と言われたんだよね、少し酷いよね。
鎌倉に帰還後の景季は、頼朝の命を受け使者として行動したり、鎌倉幕府の諸行事に
参列したりと有力御家人として活動しますが、頼朝の死後に梶原一族に暗雲がたちこめます。
頼朝に忠義を尽くした父・景時ですが、周りの家臣たちとの間に軋轢がありました。
この軋轢が元となり御家人66人の連名の弾劾を受けて、鎌倉から追放されることになり
所領の相模国一ノ宮へ退ぞきます。その後、父・景時は一族を率いて上洛を目指しますが、
途上の駿河国で戦となり、景季を含む一族33名が討ち死にすることになります。
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景時さんは、優秀な武将だと聞いたけど、なんで
こんなに敵が多いんだろうね?
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源平合戦の初期の頃は、梶原家は平家側だったんだ。頼朝さんの危機を
救い源家側に付くことになったんだけど、頼朝さんを想うあまり
景時さんは、家臣の行動を疑り報告して敵を増やしてしまったんだ。
【名言】
奥州征伐の折に、景季が頼朝に献じたといわれている歌です。
「秋風に 草木の露を 払はせて 君が越ゆれば 関守もなし」
【意訳】かつて能因法師の感じた秋風が、お裾を濡らす露を払ってくれました。
あなた(頼朝)がお越しになると聞いて、何人たりともその行く手を阻めますまい。
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景季さんは、歌道にも優れていたと、伝わっているんだよね。
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景季さんは、正直者で粋な人柄だとわかるエピソードを
いくつか紹介します。
【エピソード】
「生田の森の戦い」の時に、景季は「生田神社」の境内に咲いていた梅の花の枝を
「箙」に挿して奮戦し、坂東武者にも雅を解する者がいると敵味方問わず賞賛を浴びました。
景季が箙に梅の枝を挿しているのを見た平家の公の歌です。
「吹く風を何いとひけむ梅の花 散り来る時ぞ香はまさりける」
【意訳】吹く風をなぜ嫌ったのでしょうか。梅の香は風に舞い散る時にこそ香りは優るものなのに
木曽義仲追討の「宇治川の戦い」での景季と佐々木高綱の先陣争いの話は有名ですが
『平家物語』によると、景季は頼朝に「生食」を所望しますが断られます。
その後、義仲追討の時に高綱が「生食」に乗っていることを知った景季は、頼朝から恥辱を
与えられたとし、高綱を殺し自害を考えます。そのことを知った高綱は「頼朝様から生食を
盗んで参上した」と言い、それを聞いた景季は「そうであれば、自分も盗んでくればよかった」と
笑ったといわれています。先陣争いの結果は「腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなさい」と
高綱に騙され「磨墨」の腹帯を締め直して遅れを取った景季の負けでした。
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正直者の景季さんが、強者の高綱さんに騙されて負けた話だね。
正々堂々と競ったら、磨墨と生食のどちらが、早かったんだろうね。
【家紋】
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矢紋を広めたのは、賀国阿拝郡服部郷が名字の発祥地と言われている服部氏です。
服部の文字からもわかるように、もともとは服を織る職人一族です。
「六条天皇」のとき、弓の大会で天皇の命により、矢一千本を奉納したことから、
服部の矢紋はこれを記念したものと伝えられています。
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