松尾芭蕉(まつおばしょう)【1644年~1694年 享年50歳】
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こんにちは、reopaです。case4は「松尾芭蕉」さんです。
「奥の細道」という紀行文で有名な芭蕉さんは、どんな
人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:岩手県西 磐井郡 平泉町 平泉字衣関 中尊寺】
中尊寺の金色堂は、平安時代末期の陸奥の豪族で、平泉を発展させ争いなのない平和な
世の中を作る事に尽力した藤原清衡(ふじわらのきよひら)によって作られました。
金色堂には、清衡を含め藤原氏3代の亡骸が今も安置されています。
芭蕉が「奥の細道」で金色堂を訪れた際に詠まれた句が「五月雨の降のこしてや光堂」です。
金色堂の脇に、この句の芭蕉句碑が建っています。
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藤原清衡さんは「case5」で、紹介しています。
【家族構成】
父親:松尾与左衛門(まつおよざえもん) 母親:梅(うめ)
兄:松尾半左衛門(まつおはんざえもん)
妻:寿貞(内縁の妻と伝わる) 直系の子孫はいないとされる。
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姉一人と妹3人いたと、いわれているんだよね。
芭蕉さんに、子供がいたら俳句を作っていたのかな?
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子供がいたら、どんな俳句を詠んだか、興味が沸くね。
芭蕉さんは、有名な俳人だけど、エピソードも多い人物なんだよ。
【人物像】
芭蕉は、1644年(寛永21年)に伊賀国(現在の三重県)の農民として生まれました。
俳句の元となった俳諧(はいかい)を発展させ、世界的に知られている江戸時代に活躍した
俳人(はいじん)です。名前の「芭蕉」というのは、俳句を作る人が名乗る「俳号」で、
本名は松尾宗房(まつおむねふさ)と言います。代表作は「奥の細道」です。
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「奥の細道」?、名前だけは聞いたことあるよ。
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芭蕉さんは、俳号を3回ほど、変えているらしいよ。
ここからは、芭蕉さんが生きた時代背景を、見ていこう。
【時代背景】
芭蕉は18歳の頃、伊賀国を治めていた藤堂家の一族である藤堂良忠に仕えます。
そして良忠と共に、当時から有名だった俳人である北村季吟(きたむらきぎん)の下で
俳諧の勉強を始めました。28歳の頃、季吟から俳句の腕を認められ「俳諧埋木」を
伝授され師の元を去り、江戸に住みながら多くの俳人と交流します。
江戸では、武士や商人に俳句を教えながら数々の作品を発表しました。
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芭蕉さんの家の身分は農民なんだよね?
良忠さんの所では、厨房で料理を作っていたらしいね。
若い時から様々な俳句を詠んできましたが、42歳の頃に俳句会で詠まれた俳句が、
「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」です。
芭蕉の俳句の中で最も有名な作品として知られています。
芭蕉は他にも「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」等の旅に出ています。
45歳の時に、弟子の河合曾良(かわいそら)と日本各地を巡る旅にでます。
その旅の工程を記した「紀行文」と呼ばれるジャンルの作品で有名なのが「奥の細道」です。
主に東北地方から現在の富山県や石川県といった北陸を旅して詠んだ俳句が記されています。
この旅で芭蕉の代表作となる多くの俳句が詠まれ、訪れた地で多くの弟子も出来ました。
「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」 「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」
「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」などは、特に有名です。
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曾良さんと共に出発した「奥の細道」は
5ヵ月の歳月と、2,400kmの道のりだったんだよ。
芭蕉は、江戸から伊賀、奈良、大阪へ向かい、大阪の地で50歳の時に病死します。
「旅に病んで夢は枯野をかけ巡る」は、芭蕉最後の俳句です。
旅を愛し俳句を愛した芭蕉の生き様を詠んだと言われる俳句です。
木曽義仲公の側に葬って欲しいと言う、芭蕉の遺言通りに埋葬されました。
大阪には芭蕉を慕う弟子や後世に芭蕉の功績を称えた人達により、大阪市天王寺区の
円成院、四天宝寺、浄春寺に3つのお墓が建てられています。
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「奥の細道」の旅から戻っても、色々な場所に出かけていたようだね。
葬儀には、門人80人を含む300人ほどが参列したと伝えられているね。
【名言】
「古人の跡を求めず、個人の求めたる所を求めよ。」
(過去の偉大な人物を真似るのではなく、偉大な人物の目指していた境地や思いや本質を
学ぶことである)
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芭蕉さんには、謎も多いけど
エピソードを意外性があるんだよ。
【エピソード】
芭蕉は、伊賀国の出身という事と一日に数十キロの道程を移動した事から、伊賀忍者説や、
江戸幕府のスパイとして各地を旅することにより、大名たちを監視した監視説があります。
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