聖徳太子(しょうとくたいし)【574年~622年 享年48歳】
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こんにちは、reopaです。case25は「聖徳太子」さんです。
「徳のある聖なる人」という意味を持つ呼び名を持ち、複数人の
言葉を同時に理解したと言われる聖徳太子さんは、どんな人物
だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:滋賀県 東近江市 八日市町 市神神社】
聖徳太子といえば、奈良県が頭に浮かびますが、滋賀県にも聖徳太子に纏わる
物語や伝承が多くあります。近江七福神のひとつ「市宮ゑびす」の名で親しまれている
「市神神社」もその一つです。
聖徳太子が「瓦屋禅寺」で大阪の「四天王寺」の瓦を焼くために土を掘りできた
溜池に人が集まってきたので、市場を開くことを教えたとされています。その時、商売が
発展するよう聖徳太子自ら彫られた「ゑびす大神」の神像が御神体として祀られており、
商売繁盛の神様として信仰を集めています。
市神神社では、聖徳太子像だけでなく地域の方より奉納された「えびす像や大黒像」も、
大事に保管されており、その数は500体におよぶと言われています。
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聖徳太子さんが彫られた神像が、御神体である「ゑびす神」の胎内に
安置されているから、拝観することは出来ないんだよね。
【家族構成】
父:用明天皇(ようめいてんのう) 母:穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)
兄:田目皇子(ためのみこ)
妻:刀自古郎女(とじこのいらつめ)
息子:山背大兄王(やましろのおおえのおう)
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数々の奇跡的な伝説を残しながら、その存在の有無を議論される
太子さんの人物像と、生きたとされる時代をみていこう。
【人物像】
聖徳太子は、574年(敏達天皇3年)用明天皇(ようめいてんのう)の第二皇子として
生まれました。天皇中心の「中央集権国家」を目指し「推古天皇(すいこてんのう)」の
摂政として活躍した飛鳥時代の政治家です。生前は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と
呼ばれており、聖徳太子の名前は死後につけられたものです。
日本がまだ国として十分に整っていなかった時代に、聖徳太子は仏教を取り入れ、
役人の制度や心得を示し国の基盤づくりに貢献しました。
昔から信仰の対象とされ「太子信仰」なるものがあり「救世観世音菩薩」の化身としても
仰がれています。
【時代背景】
581年に「隋」(ずい)」が分裂状態の中国を統一すると、当時の日本である「倭(わ)」は
隋の脅威にさらされることになります。また、倭の国内では豪族同士の争いが絶えませんでした。
聖徳太子は、倭を天皇中心の「中央集権国家」としてまとめ、独立国として隋と対等な外交を目指
しました。593年(推古天皇元年)聡明な女性と言われている「推古天皇(すいこてんのう)」
が、天皇に即位すると聖徳太子は、摂政に任命されました。聖徳太子は、蘇我馬子(そがの
うまこ)と協力して「中央集権国家」を目指し革新的な政治を行いました。
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太子さんの父親である用明天皇さんや推古天皇さんの母親は、
馬子さんのお姉さんの「蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)」さんで、
太子さんと曽我氏は関係が深いんだね。
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そのうえ、太子さんの妃である「刀自古郎女」さんは、馬子さんの娘さん
だし、この時代の天皇を含めた権力者の殆どは、蘇我家に関係が有るね。
603年(推古天皇11年)聖徳太子は「冠位十二階」を制定しました。冠位十二階とは、
日本で初めての「位」の制度で、それまでの「世襲制」の「氏族制」とは違い個人の功績に
対して「位」が与えられる制度です。この制度は、家柄に関係ない人材登用だけではなく豪族達を
天皇に仕えさせるきっかけとなりました。翌604年(推古天皇12年)には「十七条の憲法」を
制定し役人や豪族が守るべき道徳が示されており、朝廷に仕える心構えを説きました。
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推古さんが進めた「二頭政治」で太子さんは、優れた政治家の
イメージが強いけど、馬子さんのイメージが湧かないんだよ。
それと、用明天皇さんの後に即位した「崇峻天皇」さんは?
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実は「崇峻天皇」さんは、馬子さんの甥なんだけど、思うように
ならないから馬子さんに暗殺されたと言われているよ。その後に即位
したのが、推古天皇さんで推古さんは、馬子さんの独裁制を抑える為に、
太子さんを摂政にして「二頭政治」を進めたんだ。
607年(推古天皇15年)聖徳太子は、当時の先進国せある「隋」の文化・学問・技術を
学ぶために「遣隋使」として「小野妹子(おののいもこ)」らを派遣します。これには、
中国との国交を再開する目的もありました。聖徳太子が隋の皇帝「煬帝(ようだい)」に
宛てた国書の 「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。」
(日の昇る国の天子から日が沈む国の天子に手紙を送ります。お変わりありませんか)で
始まる手紙は、中国の皇帝を激怒させますが、結果的には隋に倭を独立国と認めさせることに
成功しました。
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妹子さんは、生没年が不詳で女性だった説もあるよね。
太子さんからの手紙に激怒した「煬帝」さんが、太子さんに
向けた手紙を妹子さんは「無くした」と言ったのは、本当?
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煬帝さんからの手紙を無くした妹子さんは、島流しの刑に処され
るんだけど、実は手紙の内容が太子さんに見せられないと思い、
わざと捨てたという説もあるんだよ。
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太子さんは「十七条憲法」の制定後は、政治家ら距離をおいて
仏教の布教に注力したんだよね。
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そうだね「斑鳩宮(いかるがのみや)」に移り住んだ太子さんは、
中国の経典の注釈した「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」と呼ばれる
書を記したんだ。これは、日本の仏教における原点的なものだね。
【名言】
「和を以て貴しとなす」
(和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい)
「一人断らずべからず、必ず衆と共に宜しく論ずべし」
(物事はひとりで判断してはいけない、必ずみんなで論議して判断しなさい)
【エピソード】
聖徳太子は、実在の人物ではないとの説もあります。「厩戸皇子は、実在の人物であるが、
聖徳太子は、実在しない架空の人物である」といわれています。 理由の一つは「聖徳太子に関する
確実な史料は存在しない」ためです。現在ある「日本書紀」や「法隆寺の史料」は厩戸皇子の
死後1世紀も後の奈良時代に作られたものです。それゆえ聖徳太子は、架空の人物であるという
ことです。しかし、聖徳太子には「二歳で念仏を唱えた」「一度の10人の話が聞けた」
「予知能力があった」など、数々の伝説があり謎の多い人物です。
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