加藤清正(かとうきよまさ)【1562年~1611年 享年49歳】

熊本県,銅像安土桃山時代,江戸時代,加藤清正,熊本城

reopa

こんにちは、reopaです。case43は「加藤清正」さんです。
秀吉の家臣で後に賤ヶ岳の七本槍しずがたけ の しちほんやり
一人と呼ばれた加藤清正さんは、どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:熊本県 熊本市 中央区 花畑町 熊本城】 
 加藤清正は、築城三大名人の一人として知られ、「名古屋城」や「江戸城」の築城にも
携わっています。「熊本城」は、南北朝時代に築かれた「千葉城」を基に築かれた城で、
清正が関ヶ原の戦い以前から築城に着手し1606年(慶長11年)に完成しました。
完成当時の熊本城は「日本一の名城」と言われ、現在も「日本三名城」のひとつとされる城です。

 豊臣秀吉の家臣として各地の戦で数々の功績を上げた清正は、肥後国を賜わり領主として
統一を果たしました。熊本城の築城だけではなく肥後を豊かな国にするために、城下町の整備・
治水事業・農業生産増大などに尽力
し領民から感謝され、今日でも清正を「」として尊崇する
清正公信仰」が根付いています。熊本の元は「隈本」と書き、
清正が「隈より熊の方が勇ましい」と言う事で「熊本」に変えたという逸話があります。

築城三大名人と言えば「加藤清正」さんと「藤堂高虎」さんと
黒田官兵衛」さんだね。
藤堂高虎さんは「case24」で紹介しています。

【家族構成】

父:加藤清忠(かとうきよただ)
母:伊都(いと)鍛冶屋清兵衛(かじやきよべえ)の娘
兄:不明(ふめい)  
妻:清浄院(せいじょういん)水野忠重(みずのただしげ)の娘
息子:長男 虎熊(とらくま) 次男 加藤忠正(かとうただまさ)
   三男 加藤忠広(かとうただひろ)肥後国熊本藩2代藩主 
娘:長女 本浄院(ほんじょういん) 次女 瑤林院(ようりんいん)

【人物像】

 幼名は夜叉丸(やしゃまる)後に虎之助(とらのすけ)と呼ばれる。
1562年(永禄5年)刀鍛冶・加藤清忠の次男として尾張国に生まれた、安土桃山時代から
江戸時代初期にかけて活躍した武将で大名で肥後熊本藩初代藩主です。
清正は豊臣秀吉の子飼いの家臣で「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)の一人で
勇猛果敢な猛将のイメージが強いですが、武芸だけではなく築城を含む領地統治などの手腕も
とても高い人物
です。秀吉に従って各地を転戦して武功を挙げましたが、亡くなる直前まで
豊臣家の行く末を案じていた義に厚い武将です。

【時代背景】

 母の伊都(いと)は教育熱心で、虎之助(とらのすけ)が、幼い頃から妙延寺(愛知県)の
和尚の元に通わせて勉学を教えてもらったと言われています。
1573年(元亀4年)伊都と秀吉の母である「なか」(のちの大政所:おおまんどころ)が、親戚
あったことから、秀吉の小姓として仕えることになりました。
幼少の頃より体が大きかった清正は、武芸に優れおり秀吉に子供が居なかったこともあり
大切に育てられ、周りから将来を期待されていました。

 清正は1576年(天正4年)に加藤虎之介清正と名乗り元服しました。
1582年(天正10年)の「冠山城の戦い」では、城に一番乗りし敵将の竹井将監
(たけいしょうかん)と、一騎打ちをして討ち取ったのが、清正です。本能寺の変では、
明智光秀(あけちみつひで)討伐を掲げる秀吉にしたがって「中国大返し」を行ない
山崎の戦い」で、明智方の武将である近藤半助(こんどうはんすけ)を討ち取る武功を
挙げました。

中国大返し」って、中国地方を攻めていた秀吉さんが、信長さんの
死を聞いて仇討ちのために、わずか10日で京都まで戻った移動のことだね。

 本能寺の変後の、織田信長(おだのぶなが)の後継者を決める「賤ヶ岳(しずがたけ)の
戦い」で、清正は更に活躍し名を広めました。この戦いで豊臣方から柴田方へ寝返った
山路正国(やまじまさくに)を討ち取りました。賤ヶ岳の戦いで特に大きな功績をあげた
7人の武将は、後に「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)と呼ばれることになり、
清正もその一人です。この頃、のちに「加藤家三傑」と呼ばれることになる、
森本一久(もりもとかずひさ)と飯田直景(いいだなおかげ)が、清正の家臣に加わったと
言われています。この二人は幼少期に清正と負けた方が家臣になるという約束で剣の試合をして、
清正が勝ち約束を守り生涯の忠臣となります。

賤ケ岳の七本槍」は清正さん、福島正則さん、加藤嘉明さん、
脇坂安治さん、平野長泰さん、糟屋武則さん、片桐且元さんの7人ですね。

 賤ヶ岳の戦い以降は、一揆の鎮圧に失敗した佐々成政(さっさなりまさ)に代わり
小西行長(こにしゆきなが)と共に、肥後の統治を任されることになります。
肥後の統治では、政治手腕の能力の高さを発揮し、氾濫しやすい川を整備しての治水工事、
平野の開拓を行い農業の基盤を作り、商業政策などでも大きな結果を出します。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、清正は二番隊の大将として参加し、朝鮮の二人の王子を捕虜に
するなど活躍をします。和睦を進めたい石田三成(いしだみつなり)と小西行長にとり、
清正や福島正則(ふくしままさのり)などの武断派が邪魔となり、秀吉に虚偽の報告を行い
清正を交渉から外させ、和睦を推し進めますが、和睦交渉は決裂します。
これにより、再び朝鮮に出兵しますが、清正と石田三成や小西行長などとの対立が、
以後も続くことになります。

豊臣秀吉さんは、「case27」で紹介しています。

 秀吉が死去し朝鮮から撤兵したのち、まだ幼い秀吉の子・豊臣秀頼(とよとみひでより)が
石田三成らに利用されること嫌い
、清正は石田三成らを秀頼から離れさせたいと思っていました。
石田三成との関係が悪化した清正は、徳川家康(とくがわいえやす)率いる東軍に
協力します。「関ヶ原の戦い」には、参戦出来なかった清正ですが、九州の西軍勢である
小西行長や立花宗茂(たちばなむねしげ)の城に侵攻し、九州の西軍勢をことごとく打ち破り
東軍の勝利に貢献しました。1611年(慶長16年)に徳川家康が豊臣秀頼に「二条城」での
会見に臨んだ際は、秀頼を守るように隣に寄り添い、会見後も大阪城まで秀頼を送り届けますが、
肥後へ帰国する船の中で発病し死亡。最後まで豊臣家に忠義を通した、清正の最後となりました。

徳川家康さんは、「case22」で紹介しています。

【名言】

 「汝らは、等しく我股肱腹心なり使うところはその器に従う
(人を使うときは、その能力に応じて適材適所で使うべきである)

 「上一人の気持ちは、下万人に通ずる
(上に立つ者の気持ちは、下にいるすべての者に影響する」

【愛刀】

 「加藤国広」(かとうくにひろ)→重要文化財(三井記念美術館)
 「日光助真」(にっこうすけざね)→国宝(日光東照宮

【エピソード】

 加藤清正と言えば「有名な逸話が虎退治」です。
朝鮮に出兵している際、清正の陣の近くに虎が出没して、大切な家臣や馬が殺されてしまいます。
これに怒った清正は、虎を槍でついて殺したと伝えられています。
また、虎の肉は薬になるという話があり、塩漬けした虎の肉を秀吉に送ったと言われています。

 加藤清正と言えば「朝鮮出兵」での活躍も有名です。
慶長の役で、浅野左京たちが籠った蔚山城(ウルサン)が、明と朝鮮との連合軍に包囲されます。
別の城にいた清正は、左京の父親である浅野長政から右京のことを頼まれており、「今、左京を
討たせては武士の一分が立たない
」といって急行して浅野と一緒に籠城します。
水も食糧もなくひどい飢餓に襲われて苦しい中でも、清正は弱音を吐かず、大将だけに配られた
一膳飯米をみんなに分け与えながら「必ず援軍が来る」と励まし続けたそうです。
この言葉通りやがて援軍が来て連合軍を撃破し、籠城戦は実を結びました。
苦しい時に激励してくれた清正に将兵たちは、感謝の涙を流したと伝えられています。
熊本では、今も彼を「清正公(せいしょこ)さん」と呼んで慕っています

【家紋】

加藤清正の家紋「蛇の目」

 蛇の目紋は、蛇の目に似ている事が、名前の由来とされています。
蛇は神聖な生き物と考えられており、身を守るための護符の意味があります。
また、弓の弦を巻き付けておく弦巻に形が煮ていることから「弦巻紋」とも呼ばれ
武器を表すことで、力強さを表現した紋とされています。
神聖さと武具から生まれた紋であるため、多くの武士の家紋として用いられました

熊本県,銅像

Posted by reopa