豊臣秀吉(とよとみひでよし)【1537年~1598年 享年62歳】

2022年11月28日大阪府,銅像安土桃山時代,戦国時代,豊臣秀吉,大阪城跡

reopa

こんにちは、reopaです。case27は「豊臣秀吉」さんです。
サル」という、あだ名で呼ばれ貧しい身分から上り詰め
天下統一を果たした
秀吉さんはどんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:大阪府 大阪市 中央区 大阪城跡】
 「大阪城」は「豊臣秀吉」が築城したことで有名な、お城です。
大阪城の場所は「織田信長」が長年「浄土真宗本願寺勢力」と戦いを繰り広げた
石山本願寺」のあった場所です。「本能寺の変」で信長が亡くなったことで、その想いは
遂げられませんでしたが、本願寺が退去した後に信長が城を築く予定だった場所です。

 大阪城は信長亡き後に、秀吉が「三大築城名人」の一人「黒田官兵衛」に担当させ築城した
城ですが大坂夏の陣」で焼失してしまいます。その後、徳川二代将軍の「徳川秀忠」により
再建されます。この時に再建を任されたのが「三大築城名人」の一人「藤堂高虎」です。
秀吉の築城した城の全域にわたり改修が加えられ再建されましたが、天守閣は落雷により
1665年(寛文5年)に焼失
してしまいます。現在の天守閣は、昭和に入り再建された
ものです。大阪城内には秀吉を祀る「豊国神社」が鎮座しています。

大阪城は「太閤はんのお城」として、地元の人たちから親しまれて
いるんだよね。城内の「豊国神社」は、秀吉さんだけではなく秀頼さんと
秀長さんも祭神として祀られている
んだね。

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大阪城は「日本三大名城」と呼ばれるお城なんだよ。内容により
選ばれるお城が変わることもあるけど、姫路城・名古屋城・大阪城・
熊本城・松本城
の五城が、三大名城の候補と言えるんだ。

【家族構成】

父:木下弥右衛門(きのしたやえもん) 母は大政所(おおまんどころ)
姉:日秀尼(にっしゅうに)/瑞龍院(ずいりゅういん)
弟:豊臣秀長(とよとみひでなが)
妹:朝日姫(あさひひめ)  
妻:正室:高台院(こうだいいん)/寧々(ねね)
  側室:淀殿(よどどの)/茶々(ちゃちゃ) 浅井長政(あさいながまさ)の娘
息子:長男 羽柴秀勝(はしばひでかつ) 次男 豊臣鶴丸(とよとみつるまる)
   三男 豊臣秀頼(とよとみみでより) 他に女性1名 

弟の秀長さんは、秀吉さんの天下統一に欠かせない
重要な人物
だったんだよね。そして妹の朝日姫さんは
あの徳川家康さんの正室(継室)なんだね。

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秀吉さんの兄弟は、けして多くはないけど、上に書いた子供以外に
養子と養女は20人近く居るんだ。側室も10人以上いたというから、
本当の血の繋がりのある人物もわからなくなりそうだね。

【人物像】

 幼名は日吉丸(ひよしまる)尾張国で足軽をしていた木下弥右衛門(きのしたやえもん)と
妻の(なか)後の大政所(おおまんどころ)の子として生まれました。
生まれは、1537年(天文6年)ではないかと言われていますが、諸説あり確定されていません
秀吉は織田信長徳川家康と並び「戦国三英傑」の1人に数えられている戦国武将です。
秀吉は人たらし」と言われるほど人の心を掴むことが上手く、低い身分から天下人にまで
上り詰めた人物です。現在も全国にある「豊国神社」(とよくにじんじゃ)では、出世の神様
として多くの人々から信奉されています。

秀吉さんは、足軽の子とも農民の子ともいわれているんだね。
そして主君の信長さんと出会い天下人への階段を登るんだよね。

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人の心をつかむ才能に非常に長けていたと言われる、秀吉さんだけど
戦場でも数々の活躍をして、信長さんから重用されたんだ。

【時代背景】

 秀吉は、15歳の時に侍になるために生まれ故郷を出ますが、信長と出会い奉公人として仕える
前は、行商をしたり放浪生活をしたと言われています。
17歳の頃に信長に仕え始めた秀吉は、次第に戦功や才覚で頭角を現わし足軽組頭となり
1561年(永禄4年)浅生長勝の養女で杉原定利の娘である寧々と24歳で恋愛結婚します。

 1565年(永禄8年)の20代後半には、木下藤吉郎秀吉と名乗り信長の有力武将の一人として
第一線で活躍し始めました。1566年(永禄9年)美濃国(現在の岐阜県)斎藤家へ侵攻する際に、
敵前で一夜にして「墨俣城」(すのまたじょう)を築き上げたという「墨俣一夜城」の話は
秀吉が、その存在を信長に示した最初の功績と言われています。その後も「姉川の戦い
小谷城の戦い」などで活躍した秀吉は、浅井氏・朝倉氏の滅亡後に浅井氏の領地を与えられ、
長浜城」を築城し城主となります。この頃には「羽柴秀吉」と改名しています。

秀吉さんが一夜にして築城したと言う「墨俣一夜城」の話は有名だけど、
実は墨俣には、既に斎藤家のお城が有った等の諸説があるんだよね。

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信長さんの時代の資料には「墨俣一夜城」の話は無く、江戸時代の
太閤記」に記されているから、後世の作り話だと言われているね。
秀吉さんの一夜城の話は、他にも「石垣山一夜城」の話とかあるんだ。

 秀吉は信長から中国地方攻略の命を受け、中国平定が順調に進んでいる矢先に思いがけない
出来事が起こりました。1582年(天正10年明智光秀(あけちみつひで)の謀反によって
引き起こされた「本能寺の変
です。そして信長の訃報を聞いた秀吉は、信長の弔い合戦である
山崎の戦い」で光秀を討ちました。

 光秀の討伐後、信長の後継者決めと遺領の分配を目的にした「清洲会議」が行なわれました。
秀吉は信長の甥の「織田秀信」(おだひでのぶ)を推薦し「柴田勝家」(しばたかついえ)
らは、信長の3男「織田信孝」(おだのぶたか)を推薦しており大いに揉めますが、光秀討伐の
功績がある秀吉は反対意見を跳ね除けてしまい、後の「賤ケ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)
に繋がります。賤ケ岳の戦いは秀吉が、柴田勝家を破り天下統一の足掛かりとなった戦いです。

清須会議後の信長さんの葬儀に勝家さんが参加しないとか、信孝さんが
信秀さんを「岐阜城」に軟禁
していた等があり、秀吉さんと勝家さんの
確執は酷くなる方向に進んで行くんだね。

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賤ケ岳の戦い」は、勝家さん側にいた前田利家」さんが、
戦線離脱
する事で秀吉さん側が有利になり勝利しているんだ。
この戦で敗れた勝家さんと妻の「お市の方」は自害したんだ。

 織田家の実力者を討ち取った秀吉はその後、本拠地として「大坂本願寺」の跡地に難攻不落の
城塞といわれた「大阪城」を築城しました。
1586年(天正14年)秀吉は「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)から、豊臣の姓を
受け賜わり、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)と改名。その後「太政大臣」に就任し
秀吉による政権が確立し、1590年(天正18年)に開戦した「小田原征伐」の戦いは、
北条氏の降伏する形で幕を閉じ、ここに秀吉の天下統一が成し遂げられました

 天下統一に満足しなかったのか、秀吉は朝鮮と明(中国の王朝)を相手に朝鮮出兵を
行います
が、結果は想定通りにいきませんでした。
1598年(慶長3年)7月、死期が近づいた秀吉は伏見城に徳川家康などの諸大名を呼び、
自分の死後は「豊臣秀頼」(とよとみひでより)に忠義を誓い仕えるようにと遺言を言い残し、
1598年(慶長3年)8月、享年62歳で、この世を去りました。

秀吉さんの「朝鮮出兵」は、戦国最大の謎と言われているんだね。
なぜ、秀吉さんは「朝鮮出兵」にでたんだろ?

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天下統一を果たし、日本の全てを手中にした秀吉さんは、
「思いあがった」という説があるんだよ。真実は解っていないけどね。
でも、この「朝鮮出兵」が豊臣家の没落の原因の一つの様だよ。

【名言】

露と落ち 露と消えにし 我が身かな 難波のことも 夢のまた夢
(葉から地面に落ちて消える朝露のように儚い我が身であることよ、自分にゆかり深い難波での
在りし日の出来事は、まるで夢のようであった) 

夢は大きいほど良いというが、わしはすぐ手の届く事を言っている
(大きな先にある夢も夢であるが、ちょっと頑張れば叶う事も夢である。
それを叶えることを大事にしている)

【愛刀】

太閤左文字」(たいこうさもんじ)→国宝(広島県ふくやま美術館)
一期一振藤四郎」(いちごひとふりとうしろう)→御物(ぎょぶつ)として皇室の私有品。
童子切安綱」(どうじぎりやすつな)→国宝(東京国立博物館)

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秀吉さんのエピソードは多いけど、ここでは三つ紹介します。
まずは、もっとも有名な逸話からです。

【エピソード】

 ある寒い夜に、信長が下駄を履こうとすると下駄が温かくなっていました。
信長は「腰掛けていたであろう」 と藤吉郎を咎めめると「寒い夜なので、懐で
下駄を温めておりました」
と答えました。信長が藤吉郎のお腹を確認すると、
下駄の鼻緒の跡がしっかりと残っており感心した信長は、それ以降、藤吉郎を
目にかけたと言われています。

 秀吉が、敵の武将を味方に引き入れようと話をつけ、信長の元に連れてきた時、
信長はこれに対し、「心変わりしやすい者であるから、切腹させろ。」と命じました。
秀吉は「降参する者に腹を切らせては、今後、降参する者がいなくなる」と進言しましたが
信長はそれを聞き入れませんでした。そこで秀吉は、その武将の元に行き刀を投げ出した上で
「逃げてください」と伝えました。武将は秀吉の誠意に感謝し、無事脱出したと言います。
この一件を伝え聞き、秀吉の配下になりたいと思う者が多くなったと言われています。

 天下統一を成し遂げる数年前に、秀吉は「刀狩令」を布告しています。
刀狩令を布告する1年ほど前に、秀吉は日本各地で起こっていた村同士の紛争を
解決しようと
喧嘩停止令」を布告しています。そこで「喧嘩停止令」と「刀狩令」を
布告することで、各地の紛争をなくそうとしたのです。

【家紋】

豊臣秀吉の家紋「桐紋」

 豊臣氏は「桐紋」を何種類か使用しています。上記の家紋は「五七桐」といわれる紋です。
この紋は豊臣氏が正親町天皇」から賜った頃に使い始めたと伝わっています。
この他に「五三桐」といわれる紋も良く使われており花の枚数が違います。
 秀吉が用いていた家紋である「桐紋」は、もともと天皇の紋として使用されており「菊紋」と
ともに皇室と縁の深い家紋です。秀吉は家臣に五三桐や五七桐を分け与えたため、希少価値が
なくなってしまい五七桐をアレンジした「太閤桐」を使用するようになったと言います。
 明治時代以降に桐紋が日本政府の紋章として使用される様になり菊紋同様、日本を表す紋章と
なり500円硬貨にもこの桐紋が使用されています。

2022年11月28日大阪府,銅像

Posted by reopa