毛利輝元(もうりてるもと)【1553年~1625年 享年72歳】
こんにちは、reopaです。case35は「毛利輝元」さんです。
豊臣秀吉の「五大老」の一人であり「関ヶ原の戦い」では、
西軍の総大将だった毛利輝元さんは、どんな人物だったの
でしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:山口県 萩市 堀内字旧城 萩城跡】
毛利輝元は中国地方を中心に領地を保有していましたが「関ヶ原の戦い」で負けた
「西軍総大将」の責任を取らされ、東軍を率いた徳川家康に領地の2/3と「広島城」を
取り上げられてしまいます。
その後、萩に拠点をかえ「萩城」を築城し城下町づくりを進めたのが輝元です。
今回、紹介した毛利輝元の銅像は「萩城二の丸南門跡」のところに建てられています。
戦後、萩城跡と萩の城下町は国の史跡に指定され、歴史的な環境の保存が進められていきました。
萩の城下町は江戸時代の地図がそのまま使えるほど、当時の情景を残していると言われています。
そして幕末の萩城下町から、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文などの
明治維新をリードしていく人物が輩出されていきます。
輝元さんは、周りから担ぎ上げられて「西軍の総大将」になったけど、
家康さんと戦く気はあまり無かったようだね。
天下分け目の戦と言われている「関ヶ原の戦い」で、西軍の総大将として
負ければ家系の断絶になるから、輝元さんは大坂城にこもって不戦を
貫いていたとも言われているんだ。
【家族構成】
【人物像】
幼名は幸鶴丸(こうつるまる)と言い、毛利隆元(もうりたかもと)の嫡男として
安芸の国(現在の広島県)にある吉田郡山城で、1553年(天文22年)に誕生しました。
輝元(てるもと)は「三本の矢」の教訓で有名な、毛利元就(もうりもとなり)を祖父に
もつ安土桃山時代から江戸時代前期にかけての名門武将です。
織田信長(おだのぶなが)とは敵対関係でしたが「本能寺の変」後は豊臣秀吉
(とよとみひでよし)と和解し「豊臣五大老」のひとりとして大活躍しました。
後の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将となり敗れたため、領地を大幅に没収されますが、家督を
嫡男の毛利秀就(もうりひでなり)に譲り、内政を充実させることに専念し自領を繁栄をせ、
その後250年間続く長州藩の実質的な初代藩主として歴史に名を残しました。
輝元さんの祖父である元就さんは、一代で中国地方統一を成し遂げた、
稀代の策略家としても有名な武将なんだよね。
元就さんは、一族が団結することを誰よりも望んでいたと言われていて、
団結の大切さを3人の息子に伝えた「三本の矢」の逸話は有名だよ。
【時代背景】
毛利家が中国地方制覇を目指しているなか、父である毛利隆元は輝元が11歳の時に、
何者かに殺害されてしまいます。その2年後、わずか13歳で輝元は元服しますが「父には、
亡くなるまで指導していたのに、私を見捨てるのですか」と、祖父の毛利元就に泣き付いたと
言われています。中国地方は元々、大内家と尼子家が勢力を競い合っていましたが、輝元が
元服した頃には、守護大名を務めていた大内家は滅び、双璧の尼子家も残党がいる程度でした。
輝元が参戦した初陣は、この尼子家の城である「月山富田城」(がっさんとだじょう)を落とす
戦いでした。この戦いで尼子家を滅ぼし毛利家は中国地方を制覇する事になりました。この
手柄は輝元ではなく、祖父の元就のものとなりましが、その元就も輝元が19歳の時に亡くなります。
元服時の名前である輝元の「輝」は、当時の13代将軍だった
「足利義輝」の一文字を頂いて名乗ったんだね。
輝元が24歳となった1576年(天正4年)に突如、室町幕府15代将軍の足利義昭
(あしかがよしあき)が、輝元を頼って訪れてきました。織田信長に邪険に扱われていた
足利義昭は、信長討伐と幕府再建のため動きはじめます。輝元は義昭が訪れた際には、信長と
連絡を取り将軍の対応について相談するなど、親交を深めようとしていました。
しかし、信長が一番手を焼いたと言っても過言ではない「石山本願寺」の一向宗門徒達が
挙兵した際、輝元は兵糧を運ぶなど、物資援助をしてしまったのです。
この行動が信長の怒りをかい、毛利家は「織田軍・豊臣秀吉」に進軍されることになりました。
信長さんに攻め込まれ援助を求めた「本願寺」に、輝元さんは毛利配下の
村上水軍などを送り、織田軍を破り兵糧や弾薬を届けたんだね。
信長さんと関係が悪化した「将軍・義昭」さんを守ったり「本能寺」からの
援助に応えたから、輝元さんと信長さんの対立は必至だったんだろうね。
輝元さんが秀吉さんの臣下になったのは、秀吉さんの「接待」に
感激したからと言うのは、本当なの?
秀吉さんは、主催した饗宴や茶会に輝元さんを招いたり、自らの案内で
奈良の大仏や京都・大坂の名所旧跡をはじめ大坂城の天守を見物したと
言われているね。
秀吉没後に権力を握った徳川家康を倒すべく、1600年(慶長5年)石田三成が
豊臣政権を取り戻すため立ち上がります。この「関ヶ原の戦い」で、輝元は西軍の総大将に
担がれますが「大阪城」に籠り、大きな動きもしない中で負けを知ります。
その後、大阪城を明け渡し家康に素直に詫び状を書いて隠居することになります。
これを機に、嫡男の毛利秀就に家督を譲り、輝元は出家し「幻庵宗瑞」と名乗ります。
輝元が許されることになったのは、本人に野心が見えなかったことが大きな理由です。
実質的に西軍を率いた石田三成と、輝元をそそのかし総大将に担ぎ上げた安国寺恵瓊は
共に斬首され、晒し首にされました。輝元は毛利家を想いながら萩の四本松邸で73歳で死去しました。
輝元さんは毛利家の外交を担当していた安国寺恵瓊さんに説得され、
三成さん率いる西軍に付くことを決意し「西軍の総大将」になったんだね。
西軍の総大将なのに、戦に参戦しなかった事に加えて、吉川広家さんが
毛利軍が参戦しないことを条件に、毛利家の領土没収を許される約束を
家康さんとしてたんだ。下の名言はそれを知っての輝元さんの言葉だよ。
【名言】
関ヶ原の戦いの後に、処遇をめぐり家臣が尽力し輝元を助けた事に対し、自らの
非力を嘆いた言葉。
「近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている」
【愛刀】
毛利輝元の愛刀 「短刀 銘 吉光」=「毛利藤四郎」(もうりとうしろう)→東京国立博物館
輝元さんの逸話が少ないので、今回は毛利家で有名な逸話を
載せますね。
【エピソード】
毛利家と言えば「3本の矢」の逸話が有名です。
病床に伏せていた輝元の祖父である毛利元就が、3人の息子の長男・毛利隆元、次男・毛利元春、
そして3男・毛利隆景に「1本の矢は折ろうと思えばすぐに折ることができるけれど、3本束ねると
なかなか折ることができない。」 3人の兄弟がよく結束して毛利家を守って欲しいと、結束の
重要性を説いたという話です。
【家紋】
毛利家の家紋と言えば「一文字三つ星紋」(いちもんじみつぼしもん)が有名です。
この家紋は、毛利家の先祖である大江広元(おおえのひろもと)が使っていました。
一文字は、物事の始まりを表していると言われる「一文字」と、下の3つの丸は「三つ星」は
古代中国における大将軍と左右将軍を表していて「将軍星」とも呼ばれています。
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