源頼朝(みなもとのよりとも)【1147年~1199年 享年53歳】
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こんにちは、reopaです。case14は「源頼朝」さんです。
「鎌倉幕府を開いた英雄」で知られる頼朝さんは、どんな
人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【家族構成】
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頼朝さんは兄弟がとても多いんだね、個人的には義経さんが好きです。
息子の頼家さんが、鎌倉幕府の2代将軍で実朝さんが、3代将軍だよね。
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義経さんは「case36」で紹介しています。
頼朝さんの息子たちの紹介も考えていきたいね。公家中心の
政権から武士による政権を、築いた頼朝さんの活躍を見ていこう。
【人物像】
幼名は鬼武者(おにむしゃ)源義朝と由良御前の三男として尾張(現在の愛知県名古屋市)で
生まれました。源頼朝(みなもとのよりとも)と言えば、鎌倉幕府の初代将軍です。
圧倒的な指導力と統率力で、源氏・東国御家人をまとめ上げ「平家滅亡」を成し遂げました。
また、政治の実権を朝廷から奪って武家政権を確立。容姿端麗・頭脳明晰・武術にも長けた
優れた武将です。実母が正室だったために生まれてからすぐに後継者としての高い教育を
受けて育てられた、とても優秀な人物です。
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頼朝さんの母親が、義朝さんの正室なので嫡流を継いだ息子とは言え、
沢山の兄弟の中から後継者としての期待に応えたのは素質を感じるね。
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生まれ持った才能や運も有ったのは確かだと思うけど、
鎌倉幕府を開くまでには、様々な苦労もしているんだよ。
【時代背景】
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時代的に当たり前なんだろうけど、13歳の子供が初陣って考えられないよ。
囚われの身となっても殺されずに、流刑で済んだのは強運に助けられてるね。
平清盛さんは「case34」で紹介しています。
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父親と共に死刑になるはずの頼朝さんを助けたのが、池禅尼さんなんだけど
その理由が、頼朝さんの容姿端麗な面も影響したとも伝えられているんだ。
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時政さんは流罪となった頼朝さんの監視役だから、娘との結婚には
反対せざるおえない立場だっただろうね。それにしても政子さんの
行動力と芯の強さが分かるエピソードだね。
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政子さんには、父親が決めていた婚約者がいたと言われているんだ。
その立場から逃げ出して頼朝さんとの人生を選んだんだね。
流刑の立場で政子さんと出会い北条家との縁を掴んだのは、頼朝さんも
選ばれし人だね。政子さんについては、いつか紹介する機会を作るよ。
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頼朝さんは、仲間を集めるために挙兵参加者に所領の安堵を保証したり、
敵方の没収した土地を分け与える制度を作って士気を上げたんだよね。
1181年(治承5年)に平清盛が病死すると頼朝は、源義仲(みなもとのよしなか)を討伐します。
1184年(元暦元年)に「一ノ谷の戦い」、次の年に「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」を起こし、
ついに平家を滅亡させるのです。
しかし、平家滅亡の最大の功労者と言われる、腹違いの弟である源義経(みなもとのよしつね)を
謀反の疑いで追討し義経をかくまっていた奥州藤原氏をも滅亡させてしまいます。
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頼朝さんは、よく居る独裁者タイプではなく部下の特徴などを良く理解して
適材適所の役割を与えて任せたといられているんだ。
人の心を掴むのが上手かった事にくわえ、組織作りが上手いんだね。
頼朝は関東を平定し、1190年(建久元年)に上洛。
後白河法皇(ごしらかわほうおう)後鳥羽天皇(ごとばてんのう)に謁見して「権大納言」
「右近衛大将」に任命されますが、満足せず両職を辞退してしまいます。
しかし、1192年(建久3年)「征夷大将軍」に任命され、鎌倉の地に鎌倉幕府を開くのです。
頼朝と政子は、5人の子どもに恵まれますが、全員亡くなっています。
また、妾との間に1人も子どもがいなかったので、頼朝の血は耐えてしまいました。
鎌倉幕府を開いた頼朝ですが、頼朝の死後たった3代で源氏は滅亡してしまいます。
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色々な面で優れた才能をみせて鎌倉幕府を開いた稀代の武将の
子孫が僅か3代で滅亡したのは、すごく残念なことだね。
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先代があまり優秀だと後が続かないことは、良くあることだよ。
鎌倉幕府が、僅か3代で滅びたのも頼朝さんが偉大過ぎたのかもね。
【名言】
「身を重くし心を長くして、あだ疎かに振舞はず、小敵なりとも侮る心なくて、
物騒がしからず計らひ、たばかりをするが、能き事にてあるぞ。」
(自分の身を重々しく、気長に心をたもち、軽々しい行動はせず、小敵を見てもこれを侮らず、
冷静にじっくりと計略を練るのがよい。)
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慎重に物事を分析し行動する、頼朝さんらしい名言だね。
個人的に一つ心残りが有るんだけど、義経さんと仲良くして欲しかった。
【愛刀】
源氏の宝剣「髭切/鬼切」(ひげきり/おにきり)→重要文化財(北野天満宮)
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武家中心の政治という新たな歴史を作り、鎌倉幕府を開いた
優秀な武将であり政治家でもあった頼朝さんのエピソードを紹介します。
【エピソード】
源頼朝は、自ら前線で戦うことは少なかったようです。自分で何でもやりたがる、よくいる
独裁者ではなく、部下を信じ各現場を代理指揮官と軍監にゆだねる軍制を考案したのです。
これは世界的に見ても先駆けで、御家人ひとりひとりの顔・名前・特徴を把握し適材適所に配置。
任せる手法で、御家人の心をひとつにまとめ上げる組織作りを果たしました。
半面、武芸に長けた頼朝は、源氏の宝剣である「髭切」(ひげきり)を所持しており、
いざというときには、相手を確実に惨殺したといわれています。
徳川家康は、頼朝の築いた武家政権を手本にして江戸幕府を作ったと言われています。
頼朝が考案した武家政権の軍制システムは、江戸幕府が終わるまで約700年間、続きました。
北条政子は、頼朝のことを「官位も俸禄も、その恩は山より高く海より深い」と述べました。
頼朝は、鎌倉幕府を開き権力の上に胡坐をかいて威張る人物ではなく、人々が平和に暮らせる
国づくりを目指し、日本の基礎を創った真に優れた人物だったのです。
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家康さんは「case22」で紹介しています。
【家紋】
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家紋の文化は公家(貴族)が発祥ですが、それが武士達に広まったのは平安末期の
平氏滅亡後と言われています。それまでの源平合戦期は源氏なら白い(又は南無八幡大菩薩)旗、
平氏なら赤い(又は南無妙法蓮華経)旗を掲げて敵味方を識別していました。
しかし「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡した後は、ほとんどの武家が源氏の味方となっているので
識別のためにも、家紋を持つように指示が出たと言われています。
頼朝は「無地の白旗を掲げる資格があるのは源氏の嫡流である自分一人」という
メッセージを込めて「無紋(白無地)」をシンボルとしていました。
したがって「笹竜胆」は、頼朝の家紋といわれていますが、使用していない可能性が高いです。
「笹竜胆」の家紋を用いていた源氏と言えば「村上源氏」が有名です。
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