新田義貞(にったよしさだ)【1301年~1338年 享年37歳】
こんにちは、reopaです。case10は「新田義貞」さんです。
「鎌倉幕府を滅ぼした武将」で有名な義貞さんは、どんな
人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【家族構成】
息子の義顕さんは、父親より先に亡くなってしまったんだよね。
義興さんは「矢口渡」の義興の怨霊の話がある怖い人なんだ。
義宗さんは、義興さんと挙兵して一時、鎌倉を落とした武将さんです。
義興さんの母親の身分が低かった為に、新田家の嫡男は義宗さんなんだ。
でも、義興さんと義宗さんは、あの足利尊氏軍を破り鎌倉奪還を一度は
成し遂げた勇敢な武将なんだよ。
【人物像】
新田家は、あの源家と同族の家系なんだと聞いたことがあるよ。
でも、何故か新田家は鎌倉幕府内で冷遇されていたいたんだよね。
その通りなんだ、実際に義貞さんも幕府内では一御家人だったからね。
ここからは、義貞さんの活躍した時代背景を見ていこう。
【時代背景】
楠木正成さんは「case13」で紹介しています。
その後、幕府から重い徴税を課され我慢の限界にきていた義貞は、徴税に訪れた
幕府の役人2人を切り殺すという事件を起こし領土を没収されます。
この処分に憤慨した義貞は、反幕府の態度を表すようになり幕府も義貞討伐に動き出します。
この離脱は、仮病説が有力なんでしょ?重い徴税の件含め
義貞さんは、幕府に見切りを付けていたようだね。
幕府討伐のために義貞が挙兵すると、各地から反幕府に立ち上がろうと兵が集まりました。
義貞軍は「分倍河原の戦い」「関戸の戦い」にて北条軍を撃破します。
稲村ケ崎では、崖下は満潮で渡る事ができない時に、義貞が太刀を海に奉じると、
龍神が現れ海水が引き出し干潮になったと言われています。
追い込まれた北条軍は、北条氏の菩提寺「東勝寺」で、北条高時(ほうじょうたかとき)と
家臣870人ほどが自害します。
義貞は、わずか15日で難攻不落と言われ150年続いた鎌倉幕府を滅亡させました。
源頼朝さんが開いてから、150年続いた難攻不落の鎌倉幕府を、
滅亡させたことは時代の変化を生んだんだ。
この戦には、足利尊氏さんの息子を含む足利軍も参戦していたことを
忘れてはいけないよ。
鎌倉幕府が滅亡すると後醍醐天皇は、天皇中心の政治「建武の新政」を行いますが、
この政治は公家中心であったため、武士階級は反発する事になります。
1336年(建武3年)足利尊氏が、光明天皇(こうみょうてんのう)を立て「北朝」と称し、
後醍醐天皇に譲位を迫りますが、後醍醐天皇は皇位は自分の「南朝」にあると主張し、
朝廷が二分し「南北朝時代」に突入、後醍醐天皇は「南朝」の総大将に義貞を抜擢しますが
1338年(建武5年)「藤島の戦い」にて戦死、享年37歳でした。
そんな歴史の大転換点をつくった義貞が、歴史の表舞台で活躍したのはわずか6年ほどです。
後醍醐天皇さんの公家中心の政治の結果が、共に鎌倉幕府を滅亡させた
尊氏さんと義貞さんが、争うことになったのは悲しい結末だね。
37歳で亡くなった義貞さんは、生きていたらもっと活躍したと思う。
後醍醐天皇さんの目指した政治に、翻弄された武将は他にもいるんだ。
有名なところでは、楠木正成さんが該当するよ。
今後、正成さんも紹介するから待っていてくださいね。
【愛刀】
義貞さんの、エピソードを紹介します。
【エピソード】
後醍醐天皇に支持し、様々な戦いで功績を残しても、幕府から冷遇された義貞。
なぜ、そこまでして後醍醐天皇に尽したのか、疑問の一つといわれています。
1882年(明治15年)義貞は「ぶれることなく南朝に尽くした正義の人」と称され、
正一位の官位が与えられ、鎌倉幕府を滅ぼした悲劇の武将は、やっと報われたました。
妻の「勾当内侍」は、もともと後醍醐天皇の侍女でしたが、討幕の恩賞として内侍を
義貞の妻としました。
義貞が討ち取られて首が晒されたとき、内侍はその首を盗んで埋め、自分は尼となって
生涯その墓を守ったという言い伝えがあります。
その地が現在の「花見塚公園」で、勾当内侍の墓と義貞の首塚が並んで弔われています。
【家紋】
新田義貞の家紋は「一つ引き両紋」とよばれています。
横線を意味するものとして諸説ありますが「龍」を表していると伝えられています。
平安時代の末期に起きた「源平合戦」の際に、源氏は白幕を使用していました。
源氏方の武将は、源氏の白幕に配慮しそれぞれに陣幕を用いたとされています。
その際に「新田家は1本線」を用い「足利家は2本線」を用いたと言われています。
「南北朝時代の戦」で、新田義貞は足利尊氏に敗れましたが、この時に横線ひとつの
新田は一匹の竜だから二匹の足利竜に挟み討ちされて 負けたのだと言われたようです。
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