楠木正成(くすのきまさしげ)【1294年~1336年 享年43歳】
こんにちは、reopaです。case13は「楠木正成」さんです。
「忠義の人」で知られる正成さんは、どんな人物だったのでしょうか。
【銅像所在地】
【銅像所在地:東京都 千代田 区皇居 外苑】
皇居外苑にある正成像は、住友友忠氏が建立を目指し10年の歳月を要して完成しました。
上野の「西郷隆盛像」、靖国神社の「大村益次郎像」と並ぶ「東京の三大銅像」の一つです。
幕府軍数十万騎を、わずか千騎足らずで苦しめた正成、多くの武将が利を求め尊氏に寝返る中、
最後まで後醍醐天皇を支えた正成の生き方を「太平記」では「徳が高く命をかけて正しい道を
守った正成ほどの者はいない」と称されています。
皇居外苑に像が建立されたのも、天皇を守る事に生涯を捧げた正成の功績を称えてです。
この騎馬像は、隠岐から帰った後醍醐天皇を兵庫の道筋で迎えた時の正成の勇姿と、
伝えられています。
【家族構成】
正成さんには、俊親(としちか)さんという兄が系図にあるんだけど、
資料が乏しいから、実在したか良くわからないらしいね。
【人物像】
正成さんは、後醍醐天皇さんに仕える前は、朝廷にも幕府にも
属さない武将だったといわれているんだ。
後醍醐天皇さんに仕えてからの活躍を見ていこう。
【時代背景】
正成は、1331年(元弘元年)後醍醐天皇による倒幕計画「元弘の乱」に合わせて挙兵。
赤坂城での挙兵に際し、正成は「弓矢取る身の面目、これに過ぎるものはありません」
(武人としてこれほど名誉なことはない)と快諾しました。
「戦いに敗れてもこの正成さえ生きていれば、必ずご運は開けるでしょう」と
後醍醐天皇に忠誠を誓ったと言われています。
何故、正成さんがここまで後醍醐天皇さんに、忠誠を誓ったかは
謎が多いんだよね。
笠置山の戦いでは、幕府軍に比べ圧倒的に兵力が劣る中、善戦しましたが「笠置山」は陥落。
「元弘の乱」に敗れた後醍醐天皇とその側近は幕府軍に捕らえられ、隠岐に流罪となりますが、
正成は、後醍醐天皇の息子である護良親王(もりよししんのう)と共に赤坂城に逃げました。
一度は、赤坂城を放棄し撤退しますが、改めて赤坂城を奪還し後に一大勢力を築きました。
150年続いた難攻不落の鎌倉幕府を、わずか15日で滅亡させたのは、
新田義貞さんと言われているけど、正成さんの活躍も大きかったんだよ。
新田義貞さんは「case10」で紹介しています。
そして後醍醐天皇は、再び皇位に返り咲き悲願の「建武の新政」を開始しますが、
建武の新政は天皇や貴族を優遇する政治なので、不満を持った足利尊氏が反旗を翻しました。
知略に優れた正成は、足利尊氏を高く評価していたため、後醍醐天皇に足利尊氏と
手を組むように進言しましたが受け入れられず、戦に突入してしまったのです。
こんな事を言うと怒られるけど、後醍醐天皇さんって
色々な面で、判断ミスが多いように思うんだよ。どうなんだろ?
それでも正成は後醍醐天皇に従って負け戦覚悟で「湊川の戦い」に参戦しました。
そして「七生滅賊」(しちしょうめつぞく)何度生まれ変わっても、天皇のために
国賊を倒すことを誓って自害したと言われています。
いつの時代も、最高責任者が無能であっても、その右腕・左腕が
有能なら物事は成功はするからね。正成さんや義貞さんや尊氏さんが、
有能なのは間違いない事実だね。
【名言】
「合戦の勝負 必ずしも大勢小勢に依らず ただ士卒の志を一つにするとせざるとなり」
(戦いの勝ち負けは、必ずしも兵の数の多い少ないで決まるのではなく、
兵の心を一つにすることで決まるのである)
この名言は、今の時代にも共通する事だね。ここまで色々な人の名言を
見てきたけど、何かを成し遂げた人は、ためになることを残すね。
【愛刀】
「小竜景光」(こりゅうかげみつ)→国宝(東京国立博物館)
後醍醐天皇の能力には。若干の疑念は残るけど、敵同士となった
正成さんと尊氏さんの、お互いを認めている様子は羨ましくも感じるね。
認め合っている事が、よくわかるエピソードを紹介します。
【エピソード】
「太平記」に記されている、有名な後醍醐天皇と正成の出会いの話です。
後醍醐天皇は、広い庭での宴席で自分の席を探している時に、童子が現れ
「南に枝を伸ばした大きな木の下にある上座があなたの席です」と言う
夢を見ます。目覚めた後に後醍醐天皇は周りの家臣に
「木へんに南といえば楠と書く。この辺りに楠木という者はいないか」と尋ねると、
ある者が「楠木正成という者がおります」と答えたため、楠木正成を呼び寄せたという。
後醍醐天皇の度重なる判断ミスにもかかわらず、最期まで主君を裏切らなかった正成。
その美談は、時代を経ても語り継がれ時流に応じて様々な解釈がされてきました。
正成は、武士たちから絶大な支持を受けていた足利尊氏の徳と武勇を高く評価していました。
足利尊氏は、正成の後醍醐天皇への忠誠心、優れた戦略家であり勇気ある武将としての
実力に敬意を払っていました。
尊氏は、正成の死を惜しみ特別の配慮で敗戦後、京の六条河原に晒された正成の首を
故郷の親族へ丁重に送り届けました。
彼らはお互いに有能な武将として認め合っていました。
尊氏側の記録には、敵である正成の死について尊敬を持って以下のように記されています。
『誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける』
これ程までに、尊氏も正成を認めていたという事です。
【家紋】
「菊の紋」といえば、天皇家の家紋です。
鎌倉時代に後鳥羽上皇が菊の花をとても気に入り、家紋として様々な場所に菊の紋を
使用するようになったのがきっかけだと言われています。
楠木正成が、菊の付いた紋を使用することになったのは、生涯を通して後醍醐天皇に
忠義を尽くしたことに由来しています。
後醍醐天皇が正成の忠義に感謝して菊の紋を下賜したと伝えられています。
しかし、天皇家の家紋を使うことに、身に余ることだと思った正成は形を変えて
菊の花が水に流れているところを現した「菊水の紋」にしたのです。
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