南部師行(なんぶもろゆき)【生年不明~1338年】

2023年6月2日青森県,銅像八戸市博物館,南部師行,鎌倉時代,南北朝時代

reopa

こんにちは、reopaです。case3は「南部師行」さんです。
君主に最後まで同行した「忠義の人」として知られる師行さんは
どんな人物だったのでしょうか。

【銅像所在地】

【銅像所在地:青森県八戸市根城 八戸市博物館】
 顕家と共に陸奥に赴任した師行は、根城を築き職務に努めますが、足利軍との戦で
戦死します。その後も師行の子孫たちは「根城南部氏」と呼ばれ、300年にわたり
この地に住み続けましたが、遠野に領地替えが行われ根城の役割が終わりました。
現在でも、師行を偲び「根城記念祭」が開かれています。
また、本丸の主殿や納屋・馬屋などの建物を復元し「史跡根城の広場」として整備されています。

【家族構成】

父:南部政行(なんぶまさゆき)三戸南部氏12代当主
母:南部実継(なんぶさねつぐ)の娘。
兄:南部時長(なんぶときなが) 弟:南部政長(なんぶまさなが)

師行さんには、資行さんという弟がいたという話もあるようだね。

reopa

弟の資行さんについては、資料がなくてどんな人物かわからなかったよ。
続いて師行さんが、どんな人物なのか簡単に紹介するね。

【人物像】

 南部政行の次男として生まれた、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将です。
母の兄の南部長継なんぶながつぐ)の養子となり家督を継ぎ、甲斐国波木井郷
(山梨県身延町)の領主となりました。
甲斐国といえば、駿馬の産地として知られており、馬術に練達した人々が多く、
師行も馬術に長けており、騎馬隊を駆使して戦場で縦横に活躍しました。

師行さんは、軍馬を育てる役職を任されていたみたいだね。
でも、騎馬隊だから銅像は軍馬に乗っているのかな?

【時代背景】

 師行は兄の南部時長と弟の南部政長と共に新田義貞(にったよしさだ)の
鎌倉攻めに参加し、鎌倉幕府の征伐で功績をあげました。
後に新田義貞の凋落を機に北畠顕家(きたばたけあきいえ)に仕えます。

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鎌倉幕府が、滅んだ後も北条氏の残党の鎮圧などで
師行さんは、活躍していたんだよ。

新田義貞さんは「case10」で、紹介しています。

 鎌倉幕府滅亡後の1335年(建武2年)と1336年(延元2年)の二度にわたり、根城を
拠点とする南部師行の軍勢は、国府の将軍・北畠顕家と共に後醍醐天皇に敵対する
足利尊氏の討伐に出陣しています 。
足利尊氏は建武新制を行った後醍醐天皇に背き、新政府に不満を持つ者を集め京都を占領し、
さらには自ら将軍になろうとします。  
この時に反逆者とされるのを避けるため後深草天皇の曽孫・光明院を天皇として
たてたのが「北朝」の始まりです

 一方、公家統一を願う御醍醐天皇は、吉野(奈良)に朝廷を開き「南朝」政権をたてます。
こうして朝廷は京都と吉野に分かれ、公家も武士も二手に分かれて争います。
これが世にいう60年間近く続いた「南北朝時代です。

引用小・中学生のための学習教材の部屋 知識の泉 南朝と北朝について

後醍醐天皇さんが、公家中心の政治ではなく、公家も武士も
大切にすれば、無駄な戦がなかったのかもね。

 北畠顕家率いる奥州軍は、最初の戦いで新政府に背いた足利尊氏に勝利しますが、
九州で体制を立て直した足利軍が再び京都に攻め入ります。
延元2年(1336年(延元2年)南部師行は、北畠顕家と共に出陣します。
一年近くも各地で戦を繰り広げた結果、大阪の堺浦の南にある石津川のほとりで、
北畠顕家と師行は部下108人と共に、壮絶な最後を遂げました

 最後の最後まで総大将の北畠顕家と行動を共にし、忠誠を尽くした師行は奥州を
出発する前に遺言を残しています
この度の上洛は厳しく、おそらく自分は討死するだろう、しかし自分が戦場の露と消えても、
悲しまず節操を曲げずに忠節を貫徹したことを喜んで欲しい。
そして自分達南部一族が奥州に多くの土地を得られたのは、顕家と帝の恩恵があったからこそで、
今後どんなことがあっても敵の足利軍に寝返ってはならない。
」 師行の子孫はその遺言を守り、
政長、信政、信光、政光と5代に渡り、南朝方への忠誠を守り続けたと言われています。

師行さんは、最後まで顕家さんに忠義を通した武将だったんだね。
戦死覚悟の戦の前に残した遺言を見ても、気持ちが分かるよね。

【エピソード】

 大阪の天王寺駅近くに顕家を祀る「阿倍野神社」があります。
その拝殿の側には、師行をはじめとする戦死した忠魂を祀る功の宮があります。
また、二人が戦死した堺市の石津には、川沿いの小さな森の中に「源顕家、南部師行」
二人の名前が刻まれた、石の五輪塔(供養塔)が建てられています。
一方、八戸の根城本丸跡では、慰霊祭が毎年、行われています。 これは甲斐国からこの地に
赴き城を築き、その後大阪で戦死した根城の城主・南部師行を偲び、お祀りするものです。

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顕家さんと師行さんの、絆の強さがわかる供養塔があります。
また、甲斐国の人々からも慕われているんだね。

供養塔

【家紋】

南部氏家紋

 1411年(応永18年)南部守行は根城南部光経とともに秋田の安東鹿季と戦った際に
その陣中に二羽の鶴が飛来し、それを瑞祥として兵を進めたところ、勝利をおさめることが
できたと伝えられています。戦後これを記念して家紋を「二羽鶴」に改めました。
二羽の鶴が向かい合った「向鶴(むかいづる)」は「双鶴紋(そうかくもん)」とも呼ばれ、
おめでたいことの前兆から生まれたと伝えられています。

2023年6月2日青森県,銅像

Posted by reopa